2010年10月23日

三つのバプテスマ (2)



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U. 聖霊のバプテスマ



  聖霊のバプテスマは、近代においてはホーリネス派やペンテコステ派の専売特許でした。現在は、ホーリネス派の人たちが後退した中で、カリスマ派や第三の波と呼ばれる人たちが加わり、多くの人たちが聖霊のバプテスマについて色々な見解を述べています。



 A.神学的素人の神学



  もともとホーリネス派の人々もペンテコステ派の人々も、どちらかというと社会的地位が低く、神学的には素人に近いものでした。それだけに自分たちの神学の色眼鏡を通さず、素直に聖書を読むという特徴を持っていましたが、聖書の読み方が浅く、ひとりよがりのところがそこここにあったことも事実です。そのために聖書の誤った理解と神学が生まれ、その誤りから来る間違った行動もありました。それは他の伝統的教会が、伝統に縛られて聖書を素直に読めなかったという弊害に比べると、まだまだ良かったと言えるかもしれませんが、放置しておいて良いものでもありません。実際、ペンテコステ派の人々の聖書理解の浅さ、神学理解の脆弱さが、近年になってこの運動に加わってきたカリスマ派や、第三の波の人々を含めた、大きな混乱の一つの要因になっているとも言えるのです。



   1. ルカ文書とパウロ文書


  聖霊のバプテスマという体験の理解は、ほとんどがルカ文書からでてきました。実際、聖霊のバプテスマという言葉はともかく、聖霊のバプテスマそのものの内容に直接触れているのは、ルカ文書だけだからです。ですから聖霊のバプテスマについて、わたしたちの多くはルカが書き記したことの理解を前提に、他の文書にも学びの目を向けることになります。といっても、他の文書には、聖霊のバプテスマについて学ぶだけの資料はありません。ただパウロの文書にはかなり膨大な聖霊に関する言及がありますので、その中に、聖霊のバプテスマに関するものもあるのではないかと、探し出す努力をするわけです。



  ルカ文書では聖霊の働き全体が宣教論的視野から述べられ、聖霊のバプテスマもその流れの中の重要なテーマのひとつとして、取り扱われています。宣教論的なルカ文書を読むと、聖霊のバプテスマとは宣教の力の賦与(使徒1:8)と理解され、異言はその印であると考えられます。そういうルカ文書による理解を前提にしてパウロの文書を読むと、そこには異言についての言及があり、聖霊のバプテスマに関してパウロとの接点があると考えられるわけです。



  一方、強い救済論的な関心で聖書を理解しようとする福音派教会の多くは、当然パウロ文書に注意を集中し、パウロの聖霊についての教えも、救済論的な方向から理解しようとすることになりました。そして、その感覚をもってルカ文書を読み、聖霊のバプテスマにも救済論的理解を適用しようと試みたのです。



   2.それぞれ独自の文書


  私たちは、ルカ文書とパウロ文書がそれぞれ独自の文書であり、ルカ文書の先入観でパウロ文書を理解しようとしてはならず、パウロ文書の理解を基にしてルカ文書を読んでもならないことを、知らなければなりません。ルカもパウロも聖霊の働きについて語っていますが、ルカは宣教論的に語り、パウロは教会論的に語っているのです。私たちが学んだ西欧の神学では、パウロの神学は救済論が中心で、聖霊のことも救済論の中で取り扱われていることになっていますが、筆者はむしろ、パウロの神学の中心は教会論だったと考え、聖霊についても教会論との関係で論じられていると見ています。



  ルカとパウロの文書は互いに矛盾するものではなく、また互いに無関係なものでもなく、それぞれの取り扱っていない分野を捕捉しあう、調和のあるものとして見るべきです。師匠であるパウロは宣教論的取り扱いを弟子ルカに譲り、ルカは教会論的取り扱いを師匠に任せたと考えられるのです。すると、ルカ文書の先入観でパウロ文書を読むことも、逆にパウロ文書の先入観でルカ文書を調べることもなくなります。こうして、それぞれが独自の聖霊論を展開していながら相反することはないという理解で、聖霊のバプテスマについても学ぶべきなのです。



  パウロ文書の中には、聖霊のバプテスマという表現はありません。とは言え聖霊のバプテスマに関して、パウロはまったく沈黙していたというわけでもありません。先に触れたように、わずかながらですが、聖霊のバプテスマに関係していることを語っていると思われる、表現や言及が見いだされるからです。それはパウロが、ルカ文書によると聖霊のバプテスマと不可分の関係にある、異言に言及していることです。(Tコリント14:2−40)ここで言及されているパウロの教えから、異言にはルカ文書から探し出した印としての機能以外に、祈りの言葉、あるいは預言としての機能もあるという理解が生まれました。それが、こと聖霊のバプテスマについては、ルカ文書からパウロ文書を理解する傾向にある、私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの伝統的な考え方となったものです。



  反対に、パウロ文書からルカ文書を理解すると、神への祈りの言葉である異言が、ルカ文書では聖霊のバプテスマに伴う印として記されていると言えます。さらにまた、パウロは、御霊の「言いようもない深いうめきによる、私たちのためのとりなし」という表現で、異言による祈りについて語っていると思われます。(ロマ8:26) この、御霊の言いようもない深いうめきによるとりなしが、何らかのかたちで聖霊のバプテスマと関わっていると思われるのです。



   3.パウロが教える異言


  パウロの教えによると、異言はあくまでも人が神に語りかける、いうならば祈りの言葉です。しかもそれは公の祈りではなく、プライベートな祈りです。それがパウロの異言についての教えの大前提です。(Tコリント14:2) ルカ文書に慣らされた目でパウロ文書を読んだ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの人たちは、3種類の異言という理解、すなわち聖霊のバプテスマの印としての異言、預言としての異言、祈りとしての異言という見解を主張しています。ただこれは、パウロ文書を公平に読む限り、成り立たないものです。また、私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの多くが昔から主張し、教え、実践してきた、異言による預言というものも、パウロの教えていることではありません。パウロが言っているのは、異言が解き明かされると、教会の徳を高めるということです。だから解き明かしがされるように求めることを勧めているのですが、異言が神から与えられる預言の手段だから、それが解き明かされるように求めなさいということではありません。異言はあくまでもプライベートな祈りで、神に向かって語られるものですが、その祈りでさえ解き明かされるならば、キリストのみからだとしての教会の、徳を高めると言っているのです。



  したがって、私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドがやってきた、異言の解き明かしとしての預言は、聖書的根拠を持ちません。つまり非聖書的だということです。ただし、それは否聖書的であるとは言い切れません。異言を通しての預言というものが絶対にあり得ないと、聖書から証明することも出来ないからです。でも神が、わざわざ異言と解き明かしを通して預言をお与えにならなければならない、理由が見つかりません。



  筆者の個人的体験から言うと、異言の解き明かしと言われる預言のすべてが、いわゆる慰めや励まし、あるいは激励や叱咤、さらには罪の警告や信仰の警鐘などで、解き明かしたといわれた人の中に激しく湧き上がった、聖書的な思いの発露でした。その多くは、まさに預言的要素を持つものでした。つまり、預かっていた神のみことばを、聖霊の感動と励ましを受けて語るものでしたが、ことさら異言を必要とするものでもないのです。異言の解き明かしと思って語ったとしても、それは異言を解く預言というものがあると信じている人が、異言を聞くことによって心が高められ、触発されて、心の中に溜まり膨れ上がっていた神のみこころを、ほとばしらせたものだと考えられます。



  ただ言えることは、たとえ異言を解いた結果預言的な効果があったとしても、預言の手段としての異言そのものが聖書の教えではないのですから、私たちは直ちにそのような教えはやめるべきだということです。感謝、喜び、賛美などの祈りの異言が解き明かされたとき、それを聞いた人々は、同じ心になって神に向かって祈ることが出来るようになります。それが、パウロが言おうとしたことです。



   4.異言の意義


  では異言の意味、あるいは意義とはなんでしょう。何のために異言があるのでしょう。聖書はそのことに関しては沈黙しています。ただし異言が、聖霊のバプテスマが与えられた証拠、あるいは印として用いられた事実はあります。そればかりか救いの証拠ともなり、神が異邦人をも受け入れてくださったという、革命的できごとの証拠にさえなりました。(使徒10:12−47,11:14−18)だからと言って、異言は印、あるいは証拠として与えられたと言うのは早計です。平べったい豚の鼻は、まさに豚が豚であることの印のように見えます。でもあれは、豚が豚であると私たちが識別できるために与えられたのではなく、豚が豚らしく生きることができるように与えられたのです。同様に、たとえ異言が印として用いられたことがあったとしても、印となるように与えられたのではありません。異言には異言の意味、意義、機能があると理解すべきです。



  私たちの仲間の内では、聖霊のバプテスマに伴う異言には、あまり価値を置かないのが一般的です。彼らにとって大切なのは、キリストの証人となる力の付与としての聖霊のバプテスマであって、異言は単なる印以上のものではないからです。ですから、異言を求めるのではなく、聖霊のバプテスマを求めなさいという指導が行われるのです。でもそれは、パウロが勧める異言の祈りを軽視しているわけではないのです。私たちの仲間たちは、印としての異言と祈りの異言、あるいは預言としての異言を区別して考えているために、祈りの異言や預言としての異言は大切にしているのです。とはいえ、彼らはやはり異言の価値を低めています。異言の機能というか、役割を理解していないからです。



   5.原語の障壁を越えた祈り


  パウロは、異言とは神に向かって語るものだと定義しました。つまり、祈りです。ではなぜ異言の祈りが必要なのでしょう。ほとんどの場合、異言は語っている本人でさえ、意味が分からないのです。それがなぜ大切なのでしょう。パウロは、異言の問題で教会が混乱していた中でさえ、異言を語るのを禁じてはならないと教え、自分は誰よりも多くの異言を語ることが出来ることを神に感謝すると言い、あなたがたがみな異言を語ることを望んでいると、勧めています。



  異言は神から与えられた祈りの言葉です。祈りには、神からの言葉が与えられなければならない深みがあるのです。そのことをパウロは表現して言いました。「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ロマ8:26) このパウロの表現の前後を読むと、聖霊が色々な局面で私たちのとりなしをし、助けてくださっていることが分かります。特にパウロが強調しているのは、私たちがどのように祈ったらよいかわからないときに、聖霊がご自分の深いうめきをもって、私たちの祈りのとりなしをしてくださるという事実です。この聖霊の深いうめきのとりなしこそ、異言であると考えられるのです。



  私たちが自分の言葉で祈るとき、二重の意味で言葉の障壁に妨げられます。第一は、私たちの母国語の不充分さです。たとえば、「神様。あなたを愛します」などという表現は、文法的には正しいのかもしれませんが、日本語として、とても神様に言えたものではありません。英語ならば、「I love you Lord!」と、実に素直で簡単なのですが、日本語には婉曲的な表現がたくさんあって、慕情だとか恋情、あるいは尊敬や賞賛を、ダイレクトに表現する語彙も習慣もないのです。それが祈りのときの妨げになります。さらに、自分の言葉の能力が妨げになって、自分の心、自分の気持ちを表現する言葉が見つからないのです。なんとしてももどかしく、一時間祈っても二時間祈っても、表現しきれないところが残って、もどかしさが溜まってしまうのです。



  ところが異言による祈りは、この言葉の障壁を取り除いてしまうのです。これは言葉の限界を打ち破った、心の思いをダイレクトに発露できる言葉なのです。理性的には何の意味もない音に過ぎないかもしれません。それでもいいのです。一向に構わないのです。異言は理性によるコミュニケーションではなく、言葉を越えた心と心のコミュニケーションだからです。それは思いの発露、感情の発露、鬱積した言葉の山の言葉を超えた発露です。死んでいるとあきらめていた残留孤児に会った母親が、感情を爆発させて、何を言っているのかさっぱり意味不明、オイオイワーワー大声で泣いているだけのニュース映像を見たことがあります。言葉にならない言葉ですが、言葉以上に言葉の役割を果たしているのです。異言は、私たちの理性の枠を超えたところで行われるコミュニケーションの手段であり、神が与えてくださった方法です。異言を語ることによって、私たちは言葉の壁に妨げられない神との交わりを体験できるのです。当然それは、神との交わりの新しい分野であり、深みであり、高嶺なのです。



  高い山の上に集まって、好きなことを大声で叫ぶイベントを、ニュースで見たことがあります。「ばかやろー!」、「くそったれー!」と怒鳴る者がいるかと思うと、「あいしてるよー!」とか「だいすきだよー!」と叫ぶ人もいました。別に誰に向かって言っているかは関係がないのです。ただ、そのように思いっきり叫び、心に溜まっていたものを発散させ、爆発させるだけで、ひとは開放感を体験できるのです。それが、精神衛生上とてもよいと聞いたことがあります。異言の祈りは精神衛生のためにあるのではないと思いますが、神との交わりをさらに深め、高めるために、非常に重要であるといえるのです。



   6.異言の祈りの結果


  異言によって祈ると、当然、神との交わりが一段と深まったことを実感します。神の臨在が強烈に感じられるようにます。神の愛、神の守り、神の恵み、神の祝福、すべてが現実感を持って感じられます。リアルになるのです。自分が神の内に生きていること、神が自分の内に生きておられることが、体感として分かるのです。教理や神学としてではなく、実体験として理解するのです。すると、私たちの内に喜びと感動、感謝と賛美が沸きあがり、恐れも躊躇もなくなります。とうぜん、キリストの証人としても大胆になります。それはまさに、証人として全世界に出て行く力となるのです。



  異言の祈りによってもたらされる神の濃厚な臨在感は、単に証人としての力すなわち大胆さをもたらすだけではなく、クリスチャン生活の隅々にまで影響を与えます。それはクリスチャン同士の中にさらなる愛の動機を与え、豊かな交わりへと導きます。それが御霊による交わりです。あるいは寛容、親切、柔和、自制などの御霊の実を結ばせる、生命力ともなります。ですから聖霊のバプテスマはクリスチャンにとって素晴らしいことですが、それ以上に、神が望んでおられることであると考えられます。なぜならこれは、神が人間との間に願っておられる交わりの回復の、一つの頂点と言えるからです。三位一体の神は交わりの神です。はじめから愛の交わりとして存在しておられました。その交わりを広げたのが、神に似せられた人間の創造です。人間は愛し合う交わりの存在、社会的生き物として造られ、神の愛の交わりの中にまで入れていただけるものとして創造されたのです。



  神と人との愛の交わりは、罪の侵入によってひとたび妨げられましたが、神はキリストの贖いによって、回復の道を整えられました。そしていまや、聖霊のお働きによって深い交わりを実現してくださったのです。私たちはみな、キリストを信じたとき、聖霊の満ち満ちているキリストのみからだにバプタイズされ、聖霊にどっぷりと浸され、聖霊を飲むものとされ、聖霊を内に宿すものとされたのです。それらはかなり即物的な表現ですが、目に見えない深い霊的出来事をわかり易く教えたものです。そしてこの交わりは、神が人と共に住み、人の目から涙をまったく拭い取ってくださるときに完成される、完全な交わりの前味なのです。



   7.霊的出来事の体現


  パウロにとって異言は、聖霊が人に与えてくださった、神とのより高度な交わりの手段であったと考えられます。ルカによるとこの異言による交わりは、聖霊のバプテスマという体験に伴いますが、パウロはそれを一回きりの体験ではなく、継続的な体験であることを示しています。したがって異言を語ることは、聖霊のバプテスマを契機として始まる、神との深い交わりの体験であると考えられます。パウロはこの体験を誰よりも多くしていることを感謝し、みんながこの体験をするようにと励まし、この体験を禁止してはならないと戒めています。



  このように考えると、異言とは神との深い交わりを可能にするもので、聖霊のバプテスマといわれる体験に始まるものです。あるいはむしろ、異言によって可能になった深い交わりの始めを、聖霊のバプテスマと呼ぶことができます。そしてこの異言による神との深い交わりは、キリストのみ体にバプタイズされたことによって、霊的な次元においてはすでにキリストを信じたときに実現していたことを、具体的にクリスチャンの生活の中で体現するものであるといえます。すべてのクリスチャンは、クリスチャンになった瞬間、キリストのみからだにバプタイズされ、キリストのみからだに満ち溢れている聖霊に浸され、聖霊を飲み、聖霊を宿すものとなりました。ところがそれは、あくまでも霊的な次元における事実であって、物理的原則の中に生きている私たちには、それを五感で感じ取ることができません。ですから、クリスチャンになったと自覚していても、このことについては何も知らないままでいることが多いのです。まさに風は思いのままに吹くのです。



  そこで言えることは、聖霊のバプテスマという体験は、このキリストのみからだにバプタイズされているという霊的事実、聖霊に取り囲まれ、聖霊を飲み、聖霊を宿すものになっていると表現された聖霊の親密な交わりの事実を、霊的次元から日常感覚の中の現実に持ってくるものだということです。霊的事実は、聖霊の中に投げ込まれ、聖霊に取り囲まれ、聖霊に浸され、聖霊を飲み込み、聖霊を宿していることです。その圧倒的な事実を、日常のクリスチャン生活の中で体現するのが聖霊のバプテスマです。それを体現したクリスチャンたちは、圧倒的な聖霊の臨在を強烈に感じ、その感覚を日常生活に持ち込むのです。その結果、あらゆる意味で新たなクリスチャン生活の契機となるわけです。



  聖霊のバプテスマを体験したクリスチャンは、さらに喜びと感動にあふれた日常を過ごします。多くの御霊の実を結ぶようになり、キリストに似る者になって行きます。罪と戦い自分の弱さを克服していく力を内側に感じ、勇気をもって生きるようになります。神の愛を深く感じ、自らもさらに愛することが出来る者に変わり、キリストのからだを愛の共同体として行きます。
そして大胆に力強く、キリストの証人となるのです。



  ですから私たちの中のある人たちが、異言を聖霊のバプテスマの単なる付随物あるいは印と考えて、「異言を求めるのではなく聖霊のバプテスマを求めなさい」と指導するのは、大きな誤りと言わなければなりません。むしろ聖霊のバプテスマが、異言によって一段と深く、高く、神との親密な交わりの領域に入る、始まり、契機、イニシエーションのことなのです。異言こそ、聖霊のバプテスマを、聖霊のバプテスマとならせるのです。



  結び
 
 
  パウロは啓示によって奥義を示され、それまではまったく存在していなかった、教会についての神学を構築して行きました。かなり個人的な事柄であり、主に救済論に関わると思われていた洗礼も、パウロはかなり教会論的な観点から考えていたと判断されます。洗礼とは、キリストにバプタイズされたという霊的事実、キリストのみからだにどっぷりと浸されたという霊的事実を、水の中にざんぶと浸す、洗礼という目に見える儀式で表現したものと言えるからです。洗礼が人を教会に繋ぐのではありません。人が、一つの聖霊によって教会に、そしてキリストに繋げられたという、霊的事実を表現するのです。



  またパウロはルカとは違って、聖霊のバプテスマも教会論的に取り扱っています。それはキリストのからだである教会、つまりキリストご自身に、そしてその中に満ちておられる聖霊の中に、どっぷりと浸けられているという霊的現実、すなわち神との深い交わりの霊的事実を、日常の世界に持ってくるものです。キリストを飲み、内に住んでいただいているという霊的現実を、五感が働く感覚の世界、物理的法則の中で生きる次元で体現するものなのです。



  霊的出来事、霊的現実は、クリスチャン生活の基であり、毎日の生活の力となるものです。しかしそれは五感の感覚では捉えられないものです。霊的感覚が鈍くなり、まだ回復しきっていないままの私たちは、まだまだ霊的次元の出来事を察知できないことが多いのです。それを目に見える形で、そして五感で感じることが出来る形で表現したのが、水のバプテスマであり聖霊のバプテスマなのです。



  霊的次元の現実の出来事が、キリストへのバプテスマ、あるいはキリストのみからだへのバプテスマです。それこそがすべての中心です。それを儀式として表現したのが水のバプテスマ、洗礼とか浸礼とか呼ばれるものです。そして霊的次元の現実を、日常の五感の世界、物理的原則で生きる世界に体現するのが聖霊のバプテスマです。









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2010年10月22日

三つのバプテスマ (1)



ちょっとした神学的考察



           三つのバプテスマについて
 


  パウロは「バプテスマは一つ」と書いています。だからと言って、一つのバプテスマしかないと考えるのは早計であると、誰でも知っています。聖書には、バプテスマと呼ばれるものがいくつも挙げられているからです。それらのうちで、いま筆者が考えているのは、洗礼、あるいは浸礼と訳され、あるときは水のバプテスマと呼ばれているバプテスマと、聖霊のバプテスマと呼ばれるバプテスマ、さらにキリスト・イエスにつくバプテスマと言われるバプテスマと、(ロマ6:3)キリストのみ体にバプタイズされるといわれているバプテスマです。(Tコリ12:13)



  バプテスマにはずいぶん色々な解釈があり、理解の違いがあります。特に洗礼と呼ばれるバプテスマには、驚くほど異なった考え方があって、教団教派によってさまざまな教理が定められています。多くの伝統的教会が伝統を離れるのを嫌い、聖書の正しい解釈に目を閉じているうちは、そのような混乱が続くことでしょう。前提や偏見を捨て、純粋な心で聖書に学ぶ態度さえ持てるなら、これほどの教理の違いが生まれるはずはありません。教会が伝統を横に置き、真剣に聖書に向き合うことこそ、いま必要なことです。だからというわけではありませんが、筆者は聖書以外の権威には一切触れず、ただ聖書だけを取り、正しい聖書解釈と思われる解釈にへばりついて、この論を進めて行きたいと思います。

 

  またいま挙げた以外にも、筆者が今回扱おうとしている事柄に関連しているかのように聞こえる、火のバプテスマというのがあります。(マタイ3:11) これは水のバプテスマである洗礼と対比されがちですが、聖書はそのような対比をしていません。これらはまったく次元の異なるものだからです。またホーリネスの流れを汲む人たちは、(私たちも含めて) 聖書では火のバプテスマと聖霊のバプテスが並べられて出てくるために、これらを同じものであると考える傾向にあります。そして火は焼き尽くし、清めるものだという連想から、聖霊のバプテスマとは罪を焼き尽くす清めの体験であると理解するようです。ただ、文脈を大切にしながら解釈するという常識的な文章理解の原則に従うと、火のバプテスマとは神の厳しい裁きであり、聖霊のバプテスマと同一のものではないことがすぐにわかります。



T. 水のバプテスマ



  まず、洗礼もしくは浸礼と訳されているバプテスマ、水のバプテスマについて考えてみましょう。ただ、この問題については、すでに「礼典の意義について」という拙文においてかなり詳しく論じていますので、ここでは簡単に述べるだけにします。
 
 

  A. 様々な誤った理解
 


  印刷機がまだ発明されておらず、聖書が極端に少なかったときに広まったカトリックの神学としきたりの多くは、プロテスタント教会の中にも流入してきました。というよりも、それらに格別な問題意識を持たなかったプロテスタント教会は、カトリックの神学としきたりをそのまま引き継いでしまったのです。



    1.洗礼による救い 


  その一つが、洗礼を受ければ救われる、あるいは逆に洗礼を受けなければ救われないという考え方です。聖書が少なかった時代、教会の強調点が福音から儀式に移行して、教会全体の制度化が図られるなかで、洗礼はますます重みを増し、いよいよ強調されることになりました。救いは洗礼によって与えられるという教えによって、それを授ける教会の権威がさらに高めらたからです。現在でも、福音的教会と言われている教会の中にさえ、洗礼を重んじるあまり、洗礼を受けなければ救われないと説く人たちがいるほどです。



  ところが一方では、カトリック的な教会のあり方を嫌い、洗礼の必要性さえ否定する人々もいます。福音的教会はカトリックとは異なり、聖書を大切にするといわれていますが、聖書の読み方に問題があるのです。彼らの多くは、聖書の一部の語句を取り上げて、自分たちの洗礼についての考えを擁護するのですが、聖書全体から広く理解するという原則を忘れています。関連する記述を聖書全体に見いだし、それらを公平に読むと、彼らの論の間違いがすぐに分かります。

  

    2.幼児洗礼


  幼児死亡率が非常に高かった当時のカトリック教会では、幼児のための洗礼がとても大切にされました。幼児が救われるためには、なんとしても死ぬ前に洗礼を施さなければならなかったからです。ですから、ふつうは洗礼を授けることが出来るのは司祭か、それより上の階級の聖職者だけですが、特別に助産婦にもその資格が与えられているほどです。いまでもカトリックの国々ではそれが行われています。誕生直後、司祭が到着する前に死ぬ多くの子どもが、天国に行くことができるためです。



  宗教改革当時に生まれた伝統的教会は、この件に関してあまり問題を感じなかったために、現在でもこのカトリックの風習を引き継いでいます。幼児洗礼は、「信仰による救い」というプロテスタント神学と、基本的に相反するものであるはずですが、彼らは様々な理由をつけて幼児洗礼を継承し、これを神学的に(つまり詭弁で)擁護し続けています。



    3.新約の割礼としての洗礼
 

  福音的教会の中には、洗礼とは新約の割礼であると主張する人たちがいます。その主張を進めると、割礼は神の民に加えられたことを示すために、幼児のときに受けるものだから、洗礼も神の民に加えられたものとして、幼児のときに受けてしかるべきものだという、幼児洗礼を正当化する議論が生まれます。



  彼らは、この議論を進めるためにコロサイ2:11を持ち出しますが、自分たちの神学を先行させるあまり、ここでも聖書を正しく読めずに間違った解釈に陥ってしまいました。洗礼という儀式は明らかに人の手によるものですから、この聖書箇所で「キリストの割礼」と呼ばれ、「人の手によらない割礼」と言われているものにはあたりません。ですから、旧約の割礼すなわち新約の洗礼という図式にはならないのです。これは後に触れますが、「バプテスマによってキリストと共に葬られ」という12節の言葉の解釈の間違いにも、関連するものです。



    4.清めの儀式としての洗礼
 
  洗礼には罪を清めるというイメージがついて回りました。日本語の翻訳、「洗礼」も洗う儀式という意味で、洗い清めるというイメージが先行しています。ところが、聖書全体を読むと、確かに洗礼には、清めの意味がまったくなかったとは言い切れないところも、あるにはあるのですが、清めの儀式だと断定するだけの根拠はありません。むしろ言えることは、たとえ清めのイメージがあったとしても、それは聖書が伝えている洗礼の第一義的な意味ではないということです。ですから、罪を洗い流していただいたことを表す儀式が、洗礼だというのは正確ではありません。ましてや、洗礼によって罪を洗い流すと考えるのは、まったくの誤りです。ともあれ、洗礼においてあまりにも清めを強調するのは間違っています。



    5.キリストの死と復活にあずかる洗礼
 
  宗教改革の当時、カトリックの神学を引き継いでいたルターやカルビンやツウイングリたちの集団、あるいはイギリス国教会の人々とは違う、神学的素人の集団がありました。彼らは神学的素人だったがために、カトリックの神学を引き継がず、当時発明された印刷機によって、出版され始めたばかりの聖書を勝手に読み、勝手に理解したのです。この人たちは、洗礼とはキリストを信じるという信仰の表明であると理解して、幼児洗礼を否定し、信仰を理解できる年齢になってから授ける洗礼を主張しだしました。その結果彼らは幼児のときに洗礼を受けた者たちに、再び洗礼を授けることになったのです。そこで彼らは、再洗礼を行う人々を意味するアナバプテストと呼ばれ、伝統的教会からは異端と目されて、激しく迫害されるようになりました。



  彼らの伝統的神学に拘束されない素人的聖書の読み方は、やがて、キリストの死と復活にあずかるバプテスマという理解に行き着きました。つまり洗礼はキリストの死と復活にあずからせるものだという理解です。この理解は、ロマ6:3〜5やコロサイ2:12を基としています。これらの聖句の字義通りの解釈によって、彼らの中のある者たちは、洗礼を受けなければキリストの死と復活に与かることが出来ないと理解し、洗礼を救いのための必要条件にまで高めていくことになりました。そして、この再洗礼派の流れを汲むのが現在のバプテスト派の諸教会です。



  なお日本のバプテスト派諸教会は、洗う意味を強調する「洗礼」という訳を嫌い、埋葬と復活を強調することが出来、バプテスマという原語の意味をもっとも良く表わす、「浸礼」という訳を主張しています。



  私たちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドも、洗礼に関しては基本的にバプテストの考え方を継承しています。ただ私たちは、バプテスト教会のある人たちのような、かたくなに字義通りの解釈はせず、むしろ、キリストの死と甦りにあずかったという、霊的事実を象徴するバプテスマと理解し、洗礼を受けなければ救われないという極端な考えには陥らないでいます。また日本のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団では洗礼という一般的な訳語を用いていますが、強調点は「洗い」よりも「浸し」のほうにあるといえます。



  ただし、バプテスト派の人たちの主張する、浸礼はキリストの死と甦りにあずからせるという考え方も、聖書の正しい解釈に基づくとは言えません。ロマ6:3で言われている「キリストの死にあずかるバプテスマ」は、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」という事実の延長にあるバプテスマで、キリスト・イエスにつくバプテスマの結果、あるいは「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」という事実の、多くの意味の一つ、または内容の一つに過ぎないからです。事実、ここにはもう一つの意味あるいは内容が記されています。それはキリストと共に甦るということです。ですから「キリスト・イエスにつくバプテスマ」は、「キリストの死にあずかるバプテスマ」に先行する、より広く、より多くの意味を持つ、より大切なものなのです。



  したがってバプテスト系の人たちが、水のバプテスマをキリストの死と甦りにあずからせるものと考えるのは、正確ではありません。水のバプテスマは、キリストの死と甦りにあずからせる意味を含む、キリスト・イエスにつくバプテスマに関わるものだということです。また日本語では「キリストの死にあずかる」、あるいは「キリスト・イエスにつく」と訳されていますが、原語ではそれぞれ、「あずかる」とか「つく」という言葉はなく、「キリストの死へのバプテスマ」と「キリスト・イエスへのバプテスマ」となっています。むしろ「キリストの死の中へのバプテスマ」、「キリストの中へのバプテスマと訳したほうが分かりやすいと思います。ですから、ここでパウロが言っているのは、キリストの中へバプタイズされることは、すなわちキリストの死の中へバプタイズされることだという意味です。

 
 
  ですからそれは、私たちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの人々が考える、洗礼はキリストの死と甦りにあずかることを象徴するという理解にも、はてなマーク(?)をつけるものです。



 B. 正しい洗礼の理解



  では洗礼についての正しい理解とはどのようなものでしょう。それはあくまでも、聖書の正しい読み方と正しい理解から出てくるものでなければなりません。私たちは、自分がクリスチャンだというならば、自分が所属している教派や教団の主張を優先するのではなく、聖書の教えを優先すべきなのです。


 
    1.キリストへのバプテスマ


  ロマ6:3〜5を公平に読むと、パウロがここで強調しているバプテスマは、キリストの死と甦りにあずかるバプテスマであることが分かります。それはロマ書の論の流れの中で、古い罪の中にではなく、新しい命に生きるべきことを強調した中で語られたことです。しかしさらに注意深く読むと、そのキリストの死と甦りにあずかるバプテスマの、前提条件となるバプテスマ、あるいはキリストの死と甦りにあずかるバプテスマの、基となるバプテスマがあることに気付きます。それがキリスト・イエスへのバプテスマです。



    2.霊的事実を表現する儀式


  パウロがここで語っているキリスト・イエスへのバプテスマは、洗礼という目に見える儀式ではなく、バプタイズされたという目に見えない霊的事実です。儀式がキリストの死と甦りにあずかるという、霊的事実をもたらすことはあり得ません。むしろ儀式が、目に見えない霊的事実を見える形で表現しているのです。そのバプタイズされたという目に見えない事実とは、キリスト・イエスにバプタイズされた、すなわちキリスト・イエスの中にどっぷりと浸けられたということです。
 


    3.霊的事実の内容


  ではキリスト・イエスにバプタイズされたという霊的事実とは、実際どのようなことなのでしょう。パウロは同じ理解を、Tコリント12:13において、少し言葉を変えて用いています。ここでパウロは、「一つのからだ」という言い方をしていますが、一つのからだとはキリストのみからだである教会のことです。ところがその教会とは、パウロによると、「キリスト」と言い換えられるものなのです。この事実は1節前の11節にはっきり現れています。つまりパウロの思考の中では、「キリスト・イエスへのバプテスマ」は「キリストのみからだへのバプテスマ」だということです。(Tコリント12:13は、日本語聖書では「一つのからだとなるように」と訳されていますが、原語では「一つのからだへ」であって、「なるように」ではありません)



  パウロがTコリント12:11、12で語っていることは、すべてのクリスチャンは聖霊によってキリストのみからだにバプタイズされている事実です。そしてパウロの神学のなかでは、キリストのみからだにバプタイズされているのは、キリストにバプタイズされているのだということです。さらにパウロの強調は、キリストのからだにバプタイズされているのは一部の特殊なクリスチャンやエリートたちではなく、ありとあらゆる人種、文化、原語、さらには階層を越えたすべてのクリスチャンが、同様にバプタイズされているという事実です。



    4.御霊を飲むものとされた
 

  さらにパウロは、キリストのみからだにバプタイズされたものはみな、同じ御霊を飲むものとされたと言っています。パウロのこの表現を理解するためには、二つのことを思い浮かべなければなりません。ひとつはエペソ1:23で語られているパウロの理解です。そこでパウロは、「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」と語っています。(ここでも日本語の翻訳の問題があって、原語には「ところです」という言葉はなく、むしろ、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるキリストのからだ」という意味です。パウロはここで、キリストのみからだである教会は、いっさいのものをいっさいのもので満たす方、すなわち三位一体の神が満ちていると強調しているのです。



  その理解をもってパウロは、Tコリント12:13でも、キリストのみからだには聖霊が満ちあふれているという前提で語っています。その満ち溢れている聖霊の中に、すべてのクリスチャンはバプタイズされたというのです。このとき、パウロの表現を理解するためにもう一つのことを思い出さなければなりません。それはパウロが幾度も海難事故に遭い、海の中に放り投げられたことがあったことです。漲る水の中に投げ込まれたパウロは、前身くまなく水に浸された経験をしたのです。あわてて口を開こうものなら、水は容赦なく口に入り込み、腹までも届いてしまいます。鼻からも耳からも水は入ります。そういう出来事を思い浮かべたからこそ、パウロはこの箇所をかなり絵画的に表現したのでしょう。

 

  パウロは、クリスチャンが教会に、あるいはキリストにバプタイズされたときに起こったことは、ちょうど海難事故で海の水の中に投げ込まれたときのようだと言っているのです。その出来事の違いは、片方は物理の法則が支配する次元の出来事であり、他方は霊的次元での出来事だということです。目に見えない霊的次元で起こったことは、目に見える、物理的世界の表現を用いて説明しなければならなかったわけです。霊的次元での出来事は物理的五感では感じることが出来ません。だから、このキリストのみからだにバプタイズされたという、霊的事実に気付く人はほとんどいないのです。キリストも、新生について説明されたとき、風は思いのままに吹く。どこから来てどこに行くか誰にも分からない。御霊から生まれる者も同じであるとおっしゃって、新生という出来事は五感で察知できるものではないことを教えておられます。
 


  そういうわけですべてのクリスチャンは、聖霊の満ちている教会にどっぷりと浸けられました。すべてのクリスチャンは聖霊の中で生き、聖霊の中で互いに交わりを持つのです。そしてその聖霊を飲むことによって、聖霊を内に宿し、御霊の力によって生きるのです。これらの霊的次元での出来事は、遅かれ早かれ、私たちの日常生活の中に具体的に現れてくるべきものです。事実、多くのクリスチャンがそれを体験しています。また、体験するように期待されています。御霊によって生きているなら、御霊によって歩もうではないかというパウロの勧めはそのことです。ただ、霊的次元で起こったこれらのことは、霊的に無感覚なままでは、あるいは霊的に鈍くなったままでは、ほとんど気付かれることなく終わってしまうことも多いのです。



  こうしてみると、パウロは、救いの事実そのものをかなり教会論的に論じていることに気付きます。キリストを信じたときに、聖霊がその人の内に住み始め、その聖霊を内に宿した人々はキリストに連なるものとされ、救いが個人の中に完成する。そして救われた人々は、任意に集まって教会を形成するというような、西欧個人主義の神学はパウロのものではないのです。



    5.霊的事実を可視的に表現する洗礼
  

  パウロにとって洗礼を施す働きは、福音を伝えるという任務に比べると低い位置にありました。(Tコリント1:14−17)それは救いそのものに関わるのではなく、あくまでも救いという霊的事実を、儀式という可視的な形で表現するものに過ぎないからです。パウロは異邦人を主体としたコリント教会が、教会全体としては、そのはなはだしい道徳的腐敗にもかかわらず、キリストのみからだであると認めてはいましたが、個人個人の人間としては、果たして本当に救いを体験しているのか、怪しむところがあったのではないかと思われます。そのために、救いを表現する洗礼を彼らに施すことはしなかったのでしょう。



  ではパウロが洗礼で表現したのは何だったのでしょう。当然、パウロは当時のユダヤ教徒の中での洗礼を知っていました。バプテスマのヨハネが実行した洗礼も知っていました。それらには新しい生き方に入るというイニシエーションの意味や、罪を洗うという意味もあったことも知っていたはずです。キリストの名による洗礼は、キリストに従う決意の表明であり、イニシエーションであったことも知っていたはずです。あるいはキリストを信じる者の一団に加えられるための、入団式的要素があることも理解していたに違いありません。彼自身がアナニヤから洗礼を受けたときも、そのような意識だったと思われます。



  ところがパウロには新しい啓示が与えられました。このとき、キリストのみからだである教会についての奥義も示されたのです。教会はそれまで誰も知らなかった奥義だったのです。その奥義の啓示と彼の思考の中で、洗礼に対する新しい理解が生まれたはずです。ですからパウロの洗礼理解は、キリストに教えられた洗礼の理解よりもずっと深いものでした。ということは、他の弟子たちにもまだ理解されていなかったと考えられるわけです。



  パウロにとっての洗礼は、キリストを信じる者すべてに起こった霊的次元での出来事を、まだ物理的感覚に支配されて生きている人間に、わかり易く表現するものだったのです。その霊的次元で起こった出来事は、単に救いや悔い改めや清めやイニシエーションに関わるだけではなく、彼が受けた奥義の啓示である教会に関わるものでした。すなわちキリストのみからだにバプタイズされたという霊的出来事、あるいはキリスト・イエスにバプタイズされたという霊的出来事であり、それがもたらした霊的事実に関わるものでした。それがもたらした霊的事実とは、御霊による信徒たちの交わり、御霊を飲み、御霊を宿して、御霊の力によって生きるものにされていることです。パウロにとって洗礼は、救済論的な意味よりも教会論的意味を強く持つものであったのです。

                        つづく











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2010年10月21日

礼典の意義について (8)




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  2) わたしの血による新しい契約(11:25

  聖餐は、新しい契約を思い起こさせるもの、新しい契約を再確認させるものです。これはパウロが完成させた新しい神学を、背後から支える大きな力となりました。人が救われるのは、モーセを通して与えられた古い契約によるのではなく、キリストによってもたらされた新しい契約によるのであるというのが、パウロの神学と宣教の土台だったからです。彼の異邦人宣教も割礼の問題も、そこに帰したのです。新しい契約は、ユダヤ人もギリシヤ人も、神の恵みを信頼するという同じ一つの条件によって、神の民とするものでした。その契約が誤解を生み、「ではもう律法など守る必要が無いのだから、大いに快楽に打ち込もうではないか」と、愚かなことを言い出す者が現れたとしても、パウロはこの新しい契約を掲げて宣教に邁進したのです。



  新しい契約は、罪のもたらす刑罰の恐ろしさに震え、すべてをご覧になっている神の目を必死になって逃れようとする、古い契約の下にある生き方を変えました。キリストのもたらした信仰による義、無代価の救い、そして内に住んでくださる聖霊による新しい生き方によって、神の恵みの素晴らしさを称えながら、恐れなく、神に近づくことが出来るようになったのです。わたしたちは自分の行いでもなく、山羊や羊の血でもなく、キリストの完全な義をいただき、キリストの血を心で携え、大胆に神の御前に出ることが出来るのです。わたしたちの仲保者は、自分たちのためにさらに勝った仲保者を必要とする祭司ではなく、ご自分のまったき血潮を携えておられる完全な大祭司、キリストご自身なのです。(参照:ヘブル7:21〜10:25)



  クリスチャンたちは、聖餐のぶどう酒を飲むごとにこのキリストの新しい契約を思い出し、自分がいま、怒りと裁きと死をもたらす古い契約ではなく、恵と救いと永遠の命をもたらす新しい契約の中に生きていることを思い起こし、感謝し、神を賛美すべきなのです。守りきれない律法に縛られ、罪の自覚にさいなまれて生きるのではなく、聖霊による自由の中に入れられ、神の恵みの中に罪と戦って、勝利を楽しみながら生きることが出来るようにされた喜びを、爆発させていくべきなのです。聖餐の場では、ただキリストの死を痛み、涙と共に感謝を捧げるだけではなく、新しい契約を喜ぶ感動が表現されてよいのです。わたしたちは栄光に富んだ新しい契約の民なのです。(Uコリント3:6〜18)



  3) 主の死を告げ知らせる (11:26)

  聖餐は主の死を告げ知らせるものです。主が死んでくださった事実と、その意味を宣言するものです。したがって、そこには宣教論的意味が込められています。単に内輪で、キリストの死の事実と意義とを噛みしめ、確かめ、感謝するだけに終わらず、まだ、主の民になっていない人々に、主の死を告げ知らせて行くのです。



  それは聖餐の場に、まだ新しい契約の民となっていない人々がいることを、前提としています。ここで告げ知らせるのは、宣教の象徴ではなく、文字通り宣教そのものです。人々は聖餐を見、その意味を問い、それを知るのです。愛餐会の場には多くの未信者がいたのです。子どもたちもいたことでしょう。彼らが、主の晩餐だからといって、一緒に食べることが出来なかったなどと考えるのは、まったくばかげています。大人だったらそのように差別され、食事から遠ざけられることに大きな躓きを感じたことでしょう。子どもなら、泣き叫んだことでしょう。そのようなことはあり得なかったのです。信徒も未信者も、聖餐にあずかっていたのです。大人も子どもも一緒に食べていたのです。



  その愛餐会の中で人々は、特別にパンが裂かれて分けられるひと時に、疑問を持ったことでしょう。いったいそれは何のためだろう。また、ぶどう酒を高くかざして感謝を捧げて、改めてみんなで飲むのはどういうことだろうと考えたはずです。たぶん、現在の儀式化された聖餐式のほうが、そのような疑問をより大きくすると思われます。「教会で食べるあのパンは何?」「あのぶどう酒はどういう意味?」と、そこに出席していた未信者たちは尋ねることでしょう。また、彼らから話を聞いた人々も、意味を尋ねるかもしれません。そのような時、わたしたちは主の死とその意味を、きわめて福音的に、救済論的に語ることが出来るのです。



  それはちょうど、イスラエルの民が過越しの祭りの美味しくないパンを食べるとき、子どもたちが、「今日はどうしてこんな美味しくないパンを食べるの?」と尋ねたのと同じです。イスラエルの家庭では、そのとき、子どもたちに過越しの意味を説明し、主が自分たちを救い出してくださった歴史的事実を、しっかりと教え込んで行ったのです。(出エジプト12:26〜27他) 今クリスチャンは、聖餐式に参加していた子どもたちが尋ねる質問に、はっきりと、しかも分かりやすく、感謝と喜びを持って応える責任を持っているのです。同時に、そこにいる未信者にも、主の死とその意味を解き明かす責任を託されているのです。ですから、聖餐式それ自体が宣教の手段なのです。それは言葉によらない、行為の中に表された福音なのです。それを言葉に直すことにより、単に言葉だけの福音よりもさらに力強く語る福音となるのです。



  もしもわたしたちの教会が、聖餐式のときに子どもや未信者をパンとぶどう酒から遠ざけると、明らかに差別を持ち込むことになります。愛餐会の食事から遠ざけられるほどの怒りと屈辱は感じないかもしれませんが、不信感を募らせることは間違いありません。少なくても、一つの躓きになるのです。それでは聖餐の宣教論的意義に反してしまいます。実際、伝統的な教会の牧師たちの間でも、出席者たちを躓かせないために、聖餐を未信者にも与えることが出来ないか、せめて信徒の子どもたちには与えることが出来ないかと、議論されていると聞きます。クローズの立場をとっている人々の間では、せめてオープンに出来ないのかという声も上がっています。ただ多くの場合、伝統的な年配の牧師たちから、聖餐式を軽々しく取り扱うなとお叱りを受けているようです。そこで、牧師たちは一般の礼拝会では聖餐式を控え、別に信徒だけの集まりを持って、そこで聖餐式を行っている場合もあるそうです。また、差別を持ち込みたくないといって、聖餐式自体をやめてしまった牧師もいます。これもまた、困ったことです。



  多くの牧師たちの願いは、未信者たちを躓かせないことです。それは教会をもっと大きくしたい願いに繋がっています。それは聖餐の意味を明らかにし、聖餐を本当に有意義なものにしようとする努力とは別のものです。聖餐を有意義にしようとするのならば、聖餐をやめる方向には行かないはずだからです。聖餐に魔術的な意味、あるいは神秘的な力を認めると、信徒たちが聖餐の意味を噛みしめて感動と感謝を新たにすることよりも、未信者が聖餐にあずからないようにすることに重点が置かれて、このようなことが問題になってしまうのです。



  4) 主が来られるまで(11:26)

  聖餐が執(と)り行われるのは、主の来られるときまでのことです。それは宣教が主の来られるときまでだからでもあります。また、わたしたちがそのような象徴的行いをもって主を思い出し、その死の意義をくり返して確認し続けなければならないのは、わたしたちが人間の不完全さをまとっているからです。しかし主が来られるとき、わたしたちは主の栄光の姿に変えられ、不完全さを脱ぎ捨てるのです。いまは鏡に映して見るように(2千年前の鏡)しか見えていないものを、直接、顔と顔とを合わせて見るように、はっきりと見えるようになるのです。



  そういうわけでパウロは、キリストが聖餐を制定されたときほど明確にではありませんが、聖餐の終末論的な側面にも、わずかながら触れていると考えられます。キリストは「過越しが神の国で成就するまで」、「神の国が来る時まで」あるいは「父の御国で、あなた方と新しく飲むその日まで」という表現で、聖餐の終末論的意味をお語りになりましたので、厳密には、パウロのいう「主が来られるまで」とは一致しません。ただ、ここで問題にされるのはそのような、終末における出来事の厳密な時期ではありません。聖餐は、主の来られることを期待させ、完全な神の国の訪れを待ち望ませ、過越しの完全な成就を渇望させ、主と共に食卓に連なるその時を熱望させるものです。聖餐にあずかるものはそのような信仰で、胸を高鳴らせるのです。



  5) 自分をさばくことになる

  聖餐式の意義とは異なりますが、パウロが語っている重要なことの一つは、主のからだをわきまえないで飲み食いするものは、自分をさばくことになる、(v29)あるいは主の懲らしめを受けることになることです。(v32) 多くの人々がこの言葉を取って、主の肉体と血を汚すとあたかも呪いが降りかかるようなことを言い、そのように恐れているのはおかしなことです。迷信的クリスチャン信仰としか言いようがありません。パウロが言っているのは、教会が愛の共同体であり、キリストの一致と思いやりを持って、互いに助け合って行くべきであるという事実をないがしろに、差別と無関心と冷淡さをも持ち込んでくると、神の神殿をこわすことになり、神の祝福を失い、病に痛み、死に至る者さえ出てくると警告しているのです。



  愛し合い、いたわり合い、助け合って生きるならば、心も体も健康で生きる事が出来るはずの者が、争い、憎み、妬み、いがみ合い、冷淡と無慈悲の中に生きるために、病に倒れ、死にまで至るのです。それが自分をさばくことになったことであり、主の懲らしめです。




  休憩・・・・

  ここでまたより道をして・・・・・。聖餐について学んで来たことを、かいつまんでおきましょう。


  a.聖餐に関しても、伝統は非常に堅いものです。そこにはまだ中世のカトリックの魔術的感覚が残っています。そのために、わたしたちの教会に正しい聖餐観が育たず、教会が正しく理解されないまま来てしまいました。それは、教会全体としてとても残念なことですし、一人ひとりのクリスチャンにとっても、正しいクリスチャン生活が見えなくされていることであり、放っておくことは出来ません。


  b.聖餐はキリストがお定めになったものです。キリストの教えを守ろうとする教会は、けっしてこれをないがしろにすべきではなく、キリストに従おうとするすべてのクリスチャンも、絶対に軽んじてはならないものです。そこには深い象徴的意味が込められています。ですからわたしたちは、中世カトリックの魔術的感覚の聖餐理解を横において、聖書の記述から学び直さなければなりません。


  c.聖餐のパンは、天から下って来たいのちのパンであるキリストを思い起こさせるものです。荒野でマナを食べたイスラエル人はみな死にましたが、このいのちのパンを食べるものは、永遠の命を持つのです。この「食べる」という表現は、信じるという意味です。それで、キリストを象徴する聖餐のパンを食べる行為は、キリストを信じる心の行為を、目に見える形で表したものです。


  d.聖餐のパンはキリストのからだ、ぶどう酒はキリストの血を象徴するものです。その二つによって、キリストのあがないの死を象徴しているのです。そして、パンとぶどう酒を食べまた飲む行為は、キリストの死が自分たちのためであったと信じる信仰を、公に告白するものでした。パンとぶどう酒という物質自体に特別な意味があるのではなく、それを飲みまた食べる行為に意味があるのです。それをくり返して行うことによって、わたしたちはキリストを思い出し、キリストの死を思い起こすべきなのです。それはちょうど、イスラエルの人々が過越しの祝いをくり返すたびに、神が彼らをエジプトの地から救い出してくださった、歴史的事実を思いおこすのと同じでした。


  e.聖餐はまた、今やわたしたちは新しい契約の中にいるということを確認させるものです。わたしたちはもはや古い契約の下にはいません。律法による刑罰の恐れの下にではなく、キリストが神の小羊となって、ただ一度、完全な贖いの血を流してくださり、さらには完全な大祭司となってとりなしをしてくださったために、いまやわたしたちは、信仰によって、恐れなく神に近づくことが出来ることを思い起こし、感謝を捧げるのです。


  f.さらに聖餐は、やがて神の国が到来するとき、キリストと共に食べる食事を予表するものです。聖餐にあずかる者は、その神の国での食事に思いを馳せ、期待と渇望を新たにするのです。聖餐式は神の国の完成、救いの完成を予告し、神の約束、天の嗣業(しぎょう)を思い出させ、困難や痛みや病や闘いの中に生きる信徒たちを励まし、勇気づけ、慰めるものです。


  g.聖餐にあずかることが、主の体と血にあずかることではありません。わたしたちはすでに信仰によって主の体と血にあずかっています。パンとぶどう酒をいただくのは、主の体と血にあずかっている事実を再確認し、感謝と喜びを新たにするためです。聖餐は思い起こさせるものです。キリストの体そのものを食べ、血そのものを飲むことではありません。


  h.聖餐にあずかることはまた、キリストのからだである教会に属している事実を確認することです。とくに同じ一つのパンから共に食べる行為は、それを食べるものたちが、同じキリストの命にあずかり、同じキリストのからだに属している意味を強調するものです。(同じ杯から飲むことが、キリストの聖餐で定められていたかどうか、断定することはできません) こうして愛の共同体である教会、神の家族である教会に属するものとされている事実を、聖餐のたびにくり返して思い起こし、共同体の愛の絆をさらに強めまた太くしていくのです。この愛の共同体を破壊することにつながる、冷淡、無関心、差別を教会に持ち込むことは、病や死に至る災いをもたらすことにさえなるのです。


  i.聖餐は行為による福音です。その行為が人々の関心と興味を呼び起こすとき、言葉による福音の宣教が期待されているのです。その宣教の働きは、主が来られるときまで続けられます。また、完全なものが現れるとき、不完全なものは不要になります。主を思い起こさせ、主の死の意味を再確認させ、神の国の到来を思わせるための聖餐が続けられるのは、主がおいでになるそのときまでです。



    U.B.3. パンとぶどう酒について



  聖餐式に用いられるのは、ふつう、パンとぶどう酒であると言われています。ところがちょっと注意すればすぐ分かることですが、実際には必ずしもパンとぶどう酒ではありません。キリストが聖餐を制定されたときに用いられていたのは、過越しの食事用の、パン種の入っていないパンとぶどう酒でしたが、そのようなことには教会はあまり頓着してこなかったようです。



  現代ではカトリックも含めほとんどの教会が、過越しの種の入っていないパンとは似ても似つかない、聖餐式用に作った直系2cmほどのウエハースを使っています。始めから一人ひとりのために別々に作ったウエハースですので、一つのパンを裂くという重要な意味がまったく失われています。先にも触れたとおりです。



  ぶどう酒もまた、多くの場合異なっています。カトリック教会ではすでに述べたようにぶどう酒は信徒には渡しません。プロテスタント教会ではぶどう酒をそのまま用いていることが多いのですが、アメリカやイギリス回りで入ってきた福音派や保守的な教会では、ぶどう酒ではなくぶどう液を用いるのが伝統になっています。なぜぶどう酒ではなくぶどう液かというと、これらの教会はアルコール分を極端に嫌うからです。同じ教派に属する教会でも、アメリカやイギリスを回ってこなかった教会では、アルコールには寛容で、ぶどう酒を用いている場合もあります。

 

  イギリスの福音的教会には、ピューリタンやメソジストの影響が強く残っていました。それがアメリカに渡ってからはさらに力を増し、ホーリネス運動や保守的教会の興隆につながりました。それらがいわゆる「禁酒法」制定の力となって行ったのです。ピューリタン的ホーリネス的影響を強く受けた教会は、強烈な反アルコール意識を持つようになったからです。わたしたちのアッセンブリーズ・オブ・ゴッドも、この禁酒運動の最盛期に生まれた団体であり、当初から強烈な反アルコール意識を持っていたようです。聖書を読むと、ぶどう酒を飲むことはイスラエル人としてごく当たり前の習慣でしたが、酒に酔うことは不道徳として嫌われていましたし、新約聖書では酒に酔うことが禁じてられています。その一方で、パウロは弟子のテモテに、健康のために少量のぶどう酒を採ることを勧めています。また、キリストも水をぶどう酒に変えたり、聖餐式の制定の場でぶどう酒を飲んだりしておられます。当時、通常の食事に伴うぶどう酒を飲むことは、認められていたと考えるべきです。



  ところがアッセンブリーズ・オブ・ゴッドを始めとするペンテコステ各派は、昔から強硬な反アルコールの教育を続けています。その結果、聖餐式でもぶどう酒を用いず、ぶどう液で代用しています。特に、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドでは、教職にアルコールを採らないことを誓約させ、これに違反すると教職籍剥奪(はくだつ)の処分が決められています。それで、日本のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会も、ほとんどがぶどう液で代用するようになっているわけです。ところが、世界各地にはぶどう液を手に入れることができない土地がたくさんあります。ぶどう酒ならば、ぶどうを生産しない土地でも比較的簡単に手に入りますが、ぶどう液はすぐに発酵してしまうために、なかなか手に入れることができないのです。



  たとえば、筆者が宣教師として活動していたフィリピン北部の教区では、14年間の活動中、聖餐式をしたのはただ一度だけです。決定的理由は、マニラではともかく地方ではぶどう液が手に入らないためです。どうしても聖餐式をしたかった筆者は、マニラ中を探し回り、ついにぶどう液を見つけて持ち帰ったのです。おりよく、教区教職たちの修養会が行われていましたので、その場で聖餐式をしたのです。一般のフィリピン人教会で聖餐式をしたことは、マニラに滞在したときも含めて一度もありません。禁酒の観念が、実質的に聖餐式の執行を不可能にしていたのです。角を矯(た)めて牛を殺すとはこのことでしょうか。



  あるとき、同じようにぶどう液がなかなか手に入らないタイのバンコクで、アジア太平洋のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教職が集まって会議をしたことがあります。200人近い出席者のうち、半分ほどは裕福なアメリカ人宣教師たちでした。(たいていのアジア人牧師は、お金がないから旅費とホテル代が払えません。筆者は海外伝道部もちで参加できたものです。裕福な人々が無意識のうちに持ち込む、実質的な差別です) そしてこの場で聖餐式が行われたのです。国際的な集まりの場で、人種、言葉、文化を超えて聖餐式をする意義は、非常に高いものでした。ところが杯の中に入っていたのはぶどう液ではなく、本物のぶどう酒でした。その頃はバンコクでもぶどう液を手に入れるのは困難だったのです。



  ぶどう酒と知った一同の間には、一瞬、それと分かるざわめきが起り,「It’s a real thing」、という囁きがそこここに聞かれたものです。それでも多くの教職者はぶどう酒を飲みました。アメリカ人宣教師のまとめ役の教職たちも、厳かに飲んでいました。ところが、アメリカ人宣教師たちの中には、それを口にしない者がずいぶんたくさんいたのです。彼らは、聖書が教える聖餐式の意義さえ犠牲にしてまで、禁酒の掟を守り通そうとしたのです。あるいはアルコールを摂取して、教職籍を剥奪されることを恐れたのでしょうか。それにしても、さも汚らわしいものであるかのように、眉をひそめた女性宣教師たちに、筆者は、いけないことながら、憤りさえ覚えたものです。



  1990年に、アメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが中心になり、ペンテコステ派の諸団体がまとめて、「Full Life Study Bible」と名づけた聖書が出版しました。聖書本体は「NIV」なのですが、そこに、さまざまな説明や解説が加えられたものです。その中には、聖書の言うぶどう酒にはいくつもの種類があって、アルコール分の含まれていないぶどう酒も含まれていると書かれています。そして、キリストがお飲みになったぶどう酒も、水を変えてお造りになったぶどう酒も、実はこの種のものであったと解説し、自分たちの禁酒の立場を弁護しています。自分たちの立場を擁護するために、このように事実さえ曲げて説明する態度は、決して受け入れられないものです。ちなみに、この聖書の編纂(へんさん)者の一人であったM博士は、筆者との会話の中で、「これは神学的見解の違いとは異なり、事実を捻じ曲げるものであり、学者として許しがたい。自分の名が編纂者の一人として載せられていることを、非常に恥ずかしく思う。できれば、自分の名を消してもらいたい」と、まさに慙愧(ざんき)に耐えない面持ちで語っておられました。



  筆者は酒を飲まない習慣を良いものだと思います。自分も酒は飲みません。しかし、事実を曲げてまで、自己の見解を主張することには与しません。聖餐式のぶどう酒をぶどう液に変えることにも与しません。聖書がぶどう酒と言うなら、ぶどう酒でいいのです。アル中などの問題がある人が会衆の中にいる場合、その人のために配慮することは良いでしょう。とはいえ、ただ禁酒主義のためにぶどう酒をぶどう液で代用することは、あまりにも軽々しい行為だと感じるのです。

 

  ところで、ぶどう酒もぶどう液も手に入らない土地の教会は、どうすべきでしょう。パンを手に入れることができない土地も、ないとは言えないでしょう。筆者が宣教師として働いていたフィリピンの山岳奥地はそういう土地でした。聖餐式で用いるのは必ずぶどう酒でなければならないのでしょうか。絶対にパンでなければならないのでしょうか。すでに、わたしたちの教会の多くがパンをウエハースに変えていることについて触れました。サイコロ状に切った食パンを使うことも普通です。すでに、始めの形、初めの意義が失われています。それでも、行われているのです。ぶどう酒もぶどう液に変えられています。そうだとすると、パンもぶどう酒も手に入らない土地で、その代用を用いてはならないのでしょうか。



  フィリピンの山岳奥地では、ぶどう酒ではなく、どぶろくを用いてはならないのでしょうか。イスラエルの人々にとって、ぶどう酒は一般的な飲み物でした。フィリピンの山岳地で一般的な飲み物はどぶろくです。ただし、フィリピン北部山岳地のどぶろくはかなりアルコール分が強く、土着の精霊信仰とも関わっていますので、ぶどう酒の代用にふさわしいとは思えません。土地のコーヒーのほうが良いかもしれません。これは、ごく一般的です。いっそ、真水が良いかもしれません。あるいは、パンの代わりにサツマイモを用いてはならないのでしょうか。イスラエル人にとって一般的だったのはパンですが、フィリピンの山岳地の人たちにとって、最も一般的な食べ物はサツマイモです。パンは、険しい山道を数時間も歩いて町まで出なければ、買うことが出来ません。半端な道のりではありません。



  聖餐式の意義はどこにあるのでしょう。もう一度、聖書が教える聖餐式の意義に心を用いてください。もちろん筆者も、白ワインと赤ワインがあったときには、赤ワインを用います。象徴とか儀式とかいうものは、それが表現するものを髣髴(ほうふつ)とさせるのが最善です。ぶどう酒がキリストの血を象徴するものなら、当然白ワインより赤ワインのほうが良いのです。もちろん、白ワインだったからと言って、聖餐の意義が失われるわけではありません。ですからぶどう酒がぶどう液に代わったために、聖餐が無効になるのでもありません。ただ、出来るだけ素直なほうが良いと言っているだけです。



  聖餐はあくまでも象徴であり、見えない実体を可視的に表現するものです。そのようにしてとかく忘れがちで見失いがちな霊的事実、霊的出来事を思い起こし再確認するのです。そういう意味では、パンとぶどう酒に固執する必要はないといえます。だからと言って、正当な理由もないまま、最初の形を変えるべきではないと思います。



終わりに


  洗礼と聖餐は、教会に与えられた大切な礼典です。伝統的教会の多くはこれらを神秘化し、本来の重要性見失ってしまった一方、まったく非聖書的な魔術的価値を加えて、その意味を捻じ曲げてしまいました。その結果、教会の真実の姿がかすみ、働きが弱められ、使命が忘れられてしまいました。それとは反対に、本来の意義が正しく理解されなかったために、洗礼と聖餐を粗末に扱い、教会の使命遂行を台無しにしている教会もたくさんあります。



  わたしたちはいま、聖書に根付かない伝統的な理解や主張を横において、聖書に学び直し、より聖書の教えに沿った洗礼と聖餐を執行し、教会の正しいあり方と働きを追求していくべきではないでしょうか。今回のこの学びで気づいたことは、洗礼と聖餐という二つの礼典は、聖書による限り非常に教会論的だということです。多くの教会がどちらかというと救済論的に取り扱い、個人の救いに焦点をあてて理解し執行してきたものが、じつはより教会論的な意味を持ち、しかもその意味が、教会にとっても、一人ひとりのクリスチャン生活にとっても、非常に重要であることが分かりました。



  今回の試みは、聖書釈義とか神学とかいう難しい学問には、背伸びをしても手が届かなかった万年開拓伝道者の、素人的な学びに過ぎません。この試みを踏み石に、さらに素養を持ち訓練を積んだ人が、学びを深めてほしいと願うものです。そうすることによって、わたしたちの教会は、キリストが意図された教会のあり方を保ち、働きを成し遂げ、使命を遂行していくことが出来るようになり、一人ひとりのクリスチャンがキリストのみ体にバプタイズされたものとしての強烈な意識を持ち、互いに愛し協力し合いながら、キリストのみからだの使命遂行に加わって行くことがで


 (現在、日本において聖餐式にぶどう酒を使うことに、もう一つの問題が起こるようになりました。ぶどう酒の量にもよりますが、「飲酒運転」になる可能性も考えられるからです。近いうちに警察に行って、見解を聞いてこようと思っているところです)


                        おわり








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2010年10月20日

礼典の意義について (7)



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U.B.2.パウロの教え



 パウロは、聖餐の意味を神学的な命題として論じたことはありません。むしろ、教会を混乱に陥れていた実際の問題に対処するために、二度にわたって聖餐の意義を持ち出して論じています。一度は偶像に供えた物を食べることにからんで、もう一度は、すでに少し触れたように、教会の愛餐会で一部の者たちが行っていた、愛のない行為に関係して語っています。



U.B.2.a. 偶像に供えた物を食べることに関連して(Tコリント10:14〜22)



 パウロは、偶像礼拝の場で、偶像に捧げられたものを食する習慣を続けていた、コリントのクリスチャンたちの一部に警告をしています。このことは、コリントのクリスチャンたちの間では良く知られていたためか、背後の事情の説明はされていません。パウロが問題にしているのは、その食べ物が偶像に供えられたものであるかどうかではありません。(v25〜27) むしろ、その偶像の宮での食事会、あるいは偶像に供えられたものをみんなで食べる会合に、連なることが問題とされたので
す。(v21、参照・8:10)


1) キリストの血とからだにあずかる

  パウロは、偶像に捧げられた肉には何の意味もないと語っています。肉は肉に過ぎないのです。あるいは偶像自体に何か意味があることさえ、パウロは否定しています。(v19、参照・8:4) 問題は、人間が偶像を礼拝することによって、偶像自体ではなく、その背後に存在する悪霊を礼拝していることで、偶像に捧げられた物は悪霊に捧げられたものとなることでした。さらに、すでに述べたように、その悪霊にささげられたものを食べること自体に、なんら問題はありませんでした。(v25〜27) 問題は偶像にささげられたものを、偶像の宮で、あるいは偶像を礼拝する者たちの交わりの中で、共に食べることでした。それをパウロは「悪霊の食卓にあずかる」、「悪霊の杯を飲む」、あるいは「悪霊とまじわる」ことだと言っているのです。そして、その悪霊と交わる行為を、キリストと交わることになると考えられていた、聖餐で説明しているのです。



  ではパウロは、偶像に捧げられたものを食べることによって、本当に悪霊と交わることになると言っているのでしょうか。このパウロの教え諭しの全体をよく読むと、そうではないことが分かります。パウロが問題としているのは、偶像に供えられた物を食べることではなく、偶像の宮、あるいは偶像に関わる公の場で、堂々と、偶像に供えられた物を食する食卓に連なることでした。それが、偶像に捧げた物を食べることに良心の呵責(かしゃく)を感じるクリスチャンたちを、躓かせることになったからです。「すべてのことは、しても良いのです。しかしすべてのことが徳を高めるとは限りません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい」(v23〜24)「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を表すためにしなさい」(v31)とパウロは語り、クリスチャンの生き方の原則を示しています。



  この論旨の中でパウロは、偶像に捧げられた物を食べることに良心の呵責を感じている人たちの考え方にも、たとえ間違っていても、一理はあると認めているのです。それは彼らが、主の食卓にあずかるときに飲む杯は、主の血にあずかることであり、同じく主の食卓で食べるパンは、キリストのからだにあずかることであると理解していたからです。そのような理解を延長すると、偶像の食卓にあずかることは偶像にあずかることになる、その背後の悪霊と交わることになると考えられても、不思議ではなかったのです。そのために、偶像の食卓にあずかるとみなされる偶像の宮での食事、あるいは偶像に捧げられた物を一緒に食べる場で食事をすることは、教会全体の徳のため、益のため、暖かい交わりのため、避けるべきだったのです。



  このパウロの言い方は、非常に誤解されやすいものです。特に日本のような偶像文化の中で、偶像を忌み嫌う人たちは、この箇所を取り上げて、パウロは、偶像に捧げられた物を食べることは悪霊と交わることであると、教えていると主張していますが、それでは、パウロの論旨全体が矛盾してしまいます。パウロの論旨には矛盾が無いという前提で読むと、これは彼一流の言い回し、表現であることに気づきます。パウロは、偶像の宮やそれに順ずるところで、偶像にささげられたものを食べてはならないことを、そのようなレトリックで強く教えているのであって、偶像に捧げた物を食べることが、実際に悪霊と交わることになると言っているのではないのです。



  パウロは、偶像に捧げられた物を飲もうが食べようが、何の害も益もないことをはっきり語っています。ただし、食べ物のことでは躓きを与えないようにというのが主旨なのです。そして、パウロはこの主旨をはっきりさせるために、主の食卓にあずかることを持ち出してきたのです。確かに、当時の一般のクリスチャンたちの中にも、杯を飲むことは主の血にあずかることであると理解し、パンを食べることは主の体にあずかることだと考えた人々もいたのでしょう。しかし事実は、彼らはすでに主のからだにあずかり、主の血にあずかっていたのです。パンを食べることは、食べた者を主のからだにあずからせることではなく、すでにあずかっているという事実を、思い起こさせ、確認させ、告白させる象徴的行為だったのです。杯を飲むことも、杯を飲んだ者が、それで主の血にあずかることになるのではなく、すでに主の血にあずかっているという霊的事実を思い起こし、確認し、告白しているのです。



  もしも、主の食卓で飲む杯が、文字通り主の血にあずからせるものであり、主の食卓で食べるパンが文字通り主のからだにあずからせるものだとすると、悪霊の食卓で飲み食いすることは、文字通り悪霊と交わることになってしまいます。パウロはその様なことを言ってはないのです。実際は偶像に捧げた物、すなわち悪霊に捧げられた物を食べても、食べた本人に害があるわけではありません。その人が悪霊にあずかることは無いのです。ただ、そのように考えてしまう弱いクリスチャンがいるから、彼らを躓かせることがないように、思いやりを持った行動をすることが求められているのです。



  このような、信仰の弱い人に対する思いやりは、パウロの手紙にしばしば現れてくる特徴です。食物に関してパウロは、二重の意味で苦心していたようです。まず、食物に対して非常に厳しい戒律を持っていたイスラエル人と、そのようなものをほとんど持ち合わせていなかった、自由な異邦人との交わりを、いかにして円滑に保つかという問題でした。イスラエル人は偶像に供えたものを決して食べようとしなかっただけでなく、食べる人々との交わりを避けたからです。次に、偶像に供えたものを食べて育った人たちの中にも、真の神を知ってからは徹底して偶像を忌(い)み嫌うようになり、偶像の宮で食べたり偶像に捧げられた物を食べたりすることに、強烈な嫌悪感を抱いていた者たちもいたらしいことです。パウロはそのような人々を信仰の弱い人と呼び、特別の配慮を求めたのです。(参照・ローマ14:1〜23、Tコリント8:1〜13) パウロの配慮はエルサレム会議での、弟子たちの合意にも合致したものであり、当時の教会が直面した深刻な問題でもあったのです。(使徒15:20、29) パウロの言葉を理解するには、当時の社会状況を考察し、広い視野を持って問題を見る必要があります。



  そういうわけで、このパウロの教えから理解できることは、主の食卓、つまり聖餐が、主の血とからだにあずからせる、神秘的な、魔術的な力を持つ儀式ではなく、主の血と体にあずかっている霊的次元での事実を、くり返し、くり返し思い起こさせ、確信させ、告白させる象徴的行為であることです。ここが、カトリックを始め、ルター、カルビンなどの理解と異なるところです。彼らは、聖餐のパンとぶどう酒が何らかの実質的力をもつものと考えたいのです。それに対してわたしたちはパンとぶどう酒はなんら実質的な力を持つことは無いが、それらがキリストのからだと血を象徴するものであると受け取って、裂かれたキリストのからだと流されたキリストの血を思い浮かべ、それが自分のためであったと信じて感謝をもって食べまた飲むとき、わたしたちの信仰が新たにされ、強められ、結果として豊かな祝福が及ぶと信じているのです。


  2) キリストのからだにあずかる 

  この教えの中で、パウロはキリストのからだという言葉を、二重の意味で用いています。第一の意味はこれまで語ってきたように、キリストの肉体としての体です。それは血と平行して語られるものです。もう一つは、わたしたち多くの者が連なるキリストのからだで、教会を意味しています。
 


  教会の意味でキリストのからだと言うとき、パウロは、聖餐において食べるパンが一つであることを非常に重要視しています。たとえ多くの異なった人間から構成されていても、教会は一つであることを、パウロは聖餐のパンが一つであり、みなの者が共に一つのパンから食べることをもって説明しているのです。つまり、一つのパンから食べることは、教会が一つであることを象徴しているのです。



  教会が一つである事実は、聖餐のパンが一つであることによって象徴され、くり返して教えられるのです。同じ言葉こそ用いられてはいませんが、この一つのからだという概念は、11章の主の晩餐についての教えでも重要なテーマとなって、愛の無さ、無関心、冷淡さへの厳しい警告となっています。さらに12章もこのテーマによって貫かれています。「わたしたちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだにバプタイズされ、すべてのものが一つの御霊を飲む者とされた」と言われている通りです。(12:13) 13章では、その一つとされている事実は愛によって保たれるべきことが教えられ、14章では、互いの賜物をもって教会全体の徳を高めること、すなわち、何事においても教会の一致を目指すことが勧められています。実際、コリント人への手紙第一は、始めから、この一つのからだとしての一致が大きなテーマだったのです。(1:10)



  教会がキリストのからだであり、常に同じキリストのいのちにあずかり、聖霊の交わりによって生かされている事実は、これまでの教会論ではずいぶんと軽んじられてきました。可視的な組織としての教会、制度としての教会、あるいは協同組合のような教会、任意の団体としての教会は、歴史の中でも現在の世界でもずいぶん強調されてきました。ところが、同じいのちにあずかる教会、同じ御霊を飲んだ教会という霊的次元の教会は、ほとんど理解されず、その霊的次元の教会の地域的具現である地域教会の、真にあるべき姿も軽視されてきたのです。ちなみに、わたしたち聖書に忠実であろうとするアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中で、パウロが言うこの教えを理解して、一つのパンで聖餐式を行っている教会はどれほどあるでしょうか。一つのパンから食べる行為の象徴性を理解して、一つのパンを会衆の前で裂く牧師はどれほどいるでしょうか。日本の場合、ほとんどの教会は、始めから包丁でサイコロのように刻んだパンを用いています。少しばかりアメリカナイズされた教会では、始めから丸い小さな薄焼きウエハースにされた、「聖餐式用のパン」を用いているでしょうか。もちろん、聖餐式全体が象徴としての意味であるとすると、始めから一口にも満たない柔らかい煎餅にされたパンでも、サイコロ状にされたパンでも、無効というわけではありませんが、訴える力は非常に弱まります。



  このような習慣には、食べる、飲む、あるいは分ける行為にも、象徴的意味があることを理解していないことが現れています。ちなみに、筆者の教会では妻がパン種の入らない薄焼きのパンを作り、会衆の前でそれを裂き、一人ひとりに分ける方法をとっています。同じ一つのからだに属し、同じいのちを分け合い、同じ希望に生きていることをくり返して強調し、愛し合い助け合い、戒め合い教え合いながら生きることを強調しています。数年前のことですが、ちょうどユダヤ人のカレンダーの過越しの祝いのとき、フィリピンのセブ市を訪ねていました。そこで友人の家庭に偶然来合わせていた、一人のユダヤ人クリスチャンに出会いました。彼は、わざわざ母国イスラエルから取り寄せた「こだわりの粉」で、本物の過越しの祭り用のパンを作っていたのです。わたしたちは彼と共に、ささやかな過越しの祝いをしたものです。そしてそのパンをもらって日本に帰り、わたしたちの教会の聖餐式に用いました。いつも家内が作っているものに驚くほど良く似ていたので、みんな感嘆のうちに感謝して分け合ったものです。



  とにかく、一つのパンから食べる行為が、霊的次元で起っている重要な出来事を表現していることは、パウロの表現で明らかです。一つのパンを分け合う行為に意味があるのです。それにも拘らず、わたしたちの教会が一つのパンから食べる象徴的意味を明らかにせず、キリストのからだ、すなわち教会が一つであることを忘れ去ったかのような、聖餐式にはやはり疑問を感じないではおれません。わたしたちは、洗礼はキリストの死とよみがえりを象徴するものだと言って、あえて浸礼を選びそれを伝統としていますが、それは聖書に明らかに「そのようにしなさい」と教えられていることではなく、「そうだったろう」と推測されるにすぎません。ところが、一つのパンから食べることは、聖書がはっきりと記していることなのです。



  3) キリストの血にあずかる

  聖餐がキリストの血と体にあずからせるのではなく、すでにキリストの血と体にあずかっている事実を、明確に思い起こさせ、確認させ、告白させるものであることは、すでに述べた通りです。ところで、キリストの聖餐の制定の場面を読みますと、弟子たちはみな、キリストから手渡された一つの杯から飲んだと思われます。すると、これもまた、一つの杯にあずかることで、同じキリストの命にあずかり、同じキリストの血潮によって清められる、教会論的な一体性を強調する象徴として用いられても、不思議ではなかったと思われます。



  ただしパウロは、キリストにあって一つだという真理を強調したとき、同じ杯から飲み、同じキリストの血にあずかるとは言いませんでした。これはちょっと不思議なことです。想像の域をでませんが、たぶん、初代の教会で聖餐をした場合、実際上一つの杯から飲むことが困難だったのではないでしょうか。現代のような衛生観念の問題は別にして、30人、40人の人々が一つの杯を回し飲みにするのは、通常の食事の場ではかなり大変です。ましてや、数百人もの人数になると、短い時間で行うのは実際的ではありません。祝福の杯にあずかることは、キリストの血にあずかることであり、それはすべての人が同じキリストの血にあずかることであるという意味は明白でした。キリストの血にいろいろな種類があったわけではありませんから、同じ杯から飲もうが別々の杯を用いようが、象徴的意味が大きく異なるわけではないと考えられたのかもしれません。ましてや多くの場合、同じ壷か皮袋のぶどう酒を飲んでいた上、あくまでも象徴であると考えると、あまり問題にならなかったのでしょう。ただそれだからこそ、ひとつのパンを裂いてみんなで食べる行為が、象徴としての重みを増し、強調されたとも考えられます。



  現代の教会が、混乱を避けるために始めから小さなウエハースを配るのも、数千人もの大教会ならば許されるのかもしれません。でも別々の杯で飲み、ばらばらのウエハースを食べるのでは、一つのキリストのからだに連なる霊的意味合い、教会論的意味合いがまったく失われてしまいます。パウロがTコリント11章で強調したことが、まったく表現されないのです。やはり、数千人の単位でも、大き目の薄焼きパンを作り、牧師が四つ五つに裂き、それを配る役割の人に配って、さらに裂かせ、それを信徒一人ひとりが千切って取るというやり方をしてでも、一つを強調すべきだと考えるものです。ただし、やたらに清潔感が強い日本人の間では、目の前で何人もの手を経たパンを食べることに、抵抗感があるかもしれませんが、たぶんこれは日本人独特の問題でしょう。パン屋さんなど、食品を取り扱うお店では、薄いプラスチックの手袋を用いていますが、それも一つの方法でしょう。



  ここまで来ると、洗礼と聖餐という二つの礼典は、それぞれかけ離れたものではなく、深くかかわりを持つものであることに気づきます。もちろんいままでのように洗礼と聖餐を救済論的に理解しても、これらはあるていど関係があると思うくらいの意識はありました。ところが、これらを改めて教会論的に見直すことによって明らかに見えてきたのは、洗礼が、キリストのからだと呼ばれる一つの教会にバプタイズされるという、霊的次元で起った事実を象徴していることであり、聖餐で用いる一つのパンとぶどう酒にあずかることは、キリストのからだであるひとつの教会に繋がっている霊的事実と、同じキリストの命にあずかっている霊的事実を象徴していることです。二つの礼典はまさに同じことを表しているのです。くり返しますが、同じ一つのパンを食べ、同じぶどう酒を飲むのは、同じ一つのからだにバプタイズされ、一つのからだにつながり、一つの聖霊を飲み、一つのいのちに生かされている、霊的真理を表しているのです。



  しばらく前のことになりますが、有名なアメリカのテレビ伝道者が、教会に出席しなくても、テレビの前で礼拝が出来ると語り、さらに、テレビを通して聖餐式を執行していたことがありました。パーキング場形式の礼拝会も、公同の礼拝の意義を壊すものとして話題になりましたが、これはそれ以上です。実際に教会に出席することなしに、自分以外の信徒たちと顔を合わせることも、挨拶を交わすこともなく、ましてや、愛し合うとか助け合うとかいう「煩わしいこと」が一切なくても、テレビの前に自分でパンとぶどう酒を持ってきて、テレビ伝道者の言葉に合わせてそれを食べまた飲み、聖餐式が行われたと言うのです。メディアとしてのテレビの力は認めても、そのようなメディアを媒体とした教会を、本当の教会と認めることはできません。そのような媒体を通して行われる聖餐式は、本来の聖餐式の意義を失ったものです。少なくても、聖餐式の教会論的意義をまったく無視し、救済論的な意義だけを認めたものに過ぎません。



     U.B.2.b. 主のみからだをわきまえないで飲み食いすることに関連して(11:17〜34)
 


  この箇所についてはすでに少しばかり学びました。パウロがここで激しく叱責しているのは、キリストを信じていない人々が聖餐にあずかることではありませんでした。それが「ふさわしくないまま」という意味ではないからです。つまり、キリストの裂かれた肉体と流された血の意味を理解もせず信じてもいない人たちが、それらの象徴にあずかることによってキリストの肉体と血を汚すことになると言っているのではなく、愛と思いやりの共同体であるべきキリストのからだが、すなわちキリストの教会が、まったく愛のない行為によって台無しにされていると叱責しているのです。愛と思いやりを表現する主の愛餐に、差別と拒絶と排除が持ち込まれている事実に、パウロは激怒したのです。



  主のからだをわきまえないと言った時の「主のからだとは」、十字架につけられた主の肉体ではなく、信徒たちの共同体としての主のからだ、つまり教会でした。主が愛してやまず、そのためにご自分をささげられた教会だったのです。(エペソ5:25) 教会が愛の共同体であることを無視し、あるいはないがしろにし、あるいは軽んじ、差別の場にしていることが、すべての信徒が一つとなって、愛の共同体を造るために痛められ流された、主のからだと血に対して罪を犯すことになったのです。そのような差別を持ち込んだまま一緒に集まり、主の晩餐をしようとして飲み食いしても、それは主の晩餐になっていないと言っているわけです。(v20) パウロは、ただ飲み食いするだけなら、自分の家でそうすれば良いといっています。主の晩餐で大切なのは一緒に食べる、そして持ち寄ったものを互いに分け合って食べることでした。それが出来ていないのが、主の晩餐自体の意義を壊していたのです。ただ心得ておかなければならないのは、たとえわたしたちがどのようなことをしたとしても、主の肉体と血を汚すことなど出来はしないことです。



  1) キリストを覚えておこなう(11:25、26)

  パウロの時代、主の聖餐はすでに広く行われ、キリストが教えてくださった基本的な意義は、語り伝えられていたのでしょう。パウロはキリストがお語りになったように、聖餐とはキリストを覚えて行うものであるとくり返しています。(v24、25) 人間はすぐに物忘れをしてしまいます。それでわたしたちは、片身や遺品を大切にします。それらに思い出がまとわりつき、亡くなった人をより鮮明に思い起こさせるからです。現代ならば写真もビデオもあるので、もっと鮮明に思い出すことも出来ます。ところが、当時の人々がキリストを思い起こすには、そのようなものはありませんでしたし、なんでもすぐに崇拝と礼拝の対象にして偶像礼拝に陥る人間の弱さから、キリストの持ち物や身につけていたものを残していくことも、得策とはなりませんでした。そこで、キリストは、「物」ではなく行為を残されたのです。思い起こさせる「物体」ではなく、思い起こさせる「行動」です。パンとぶどう酒はどこにでもありました。それらがキリストを思い起こさせるのではなく、そのどこにでもあるパンとぶどう酒を、キリストのからだと血の象徴とする行為、それを分け合う行為に意味があったのです。キリストのからだと血を象徴するパンとぶどう酒があらかじめ「聖別」され、準備されて持ち込まれたのではなく、食事のために持ち込まれた普通のパンとぶどう酒が祝福され、キリストのからだと血を表すものであると受け取られて、初めてそれは象徴となったのです。それを食べる行為がキリストを思い起こさせる行為となり、キリストを信じる信仰告白となったのです。



  パンとぶどう酒は祝福され、キリストのからだと血の象徴としての意味を持つようになりました。ただ、パンとぶどう酒は、いわゆる「聖杯」や「ハンカチ」のようにいつまでも残るものとはならず、すぐにも腐り失われていくものでした。偶像にはなりえなかったのです。それにもかかわらず、カトリックを代表とする伝統的教会はパンとぶどう酒を、神秘的力を持つものに「格上げ」せずにはおれませんでした。こうして偶像化が進むのです。モーセの遺体が残されなかったように、キリストの形見も残されなかったのです。キリストが髪の毛を残し、つめを残し、衣を残していたならば、必ず、たちまちのうちに偶像礼拝が始まったことでしょう。世界中にあるすべての仏舎利塔より、もっとたくさんの塔が立ったに違いありません。キリストが残したのは、偶像礼拝に発展する可能性がある物体ではありません。すぐに腐り失われていくパンとぶどう酒は、偶像の礼拝の対象にはなり得ないものです。大切なのはそれらを食べ、また飲むむという「行為」がもつ意味だったのです。



  パウロの時代の聖餐式は、現代のわたしたちの聖餐式とは異なっていました。現在のわたしたちの教会では、礼拝会の中で聖餐式という儀式を行うのですが、パウロの時代にはまだ儀式として発展しておらず、むしろ愛餐会として行われていました。(v20) ですから、すでに触れたように、パンもぶどう酒も儀式用としてではなく、普通の食事の一部として、食料として持ってこられたものです。キリストが聖餐をお定めになったのは過越しの祭りであったために、そのときのパンは間違いなくパン種の入っていないパンでしたが、そのようなことも、問題にはされていません。ただ、その食事会の中で、みんなが一つのパンから食べる、短い時間があったのだと思われます。まだ儀式化されていなかったので、実際には集まった人数やパンの大きさなどの理由から、時には二つのパンが用いられたかもしれません。しかし、一つのパンからみんなが食べる意味、意義は保たれていたのでしょう。



  ところが分裂騒ぎを起こしていたコリントの教会では、(v18) みんなが一緒になって食事をする場でさえも、差別や好き嫌い、あるいは憎しみや妬みのたぐいが、もやもやと煙のように立ち込めていたのでしょう。貧しい者や弱い者に対する思いやりも欠け、ある者は、自分たちの持ってきた豊かな食事をさっさと食べ、満腹になり、酔っ払っていたほどです。(酔っ払っていたこと自体は叱責の対象になっていません)その傍らでは、食べるものがない人たちが、お腹を空かせたまま、はずかしい思いをしていたのです。それこそが神の教会を軽んじることであり、キリストのからだをわきまえないことだったのです。(v22、29)



  コリントの教会の愛餐会では、キリストも思い起こされず、聖餐の意味も忘れられ、教会が愛の共同体であることが、すっかり空洞化していたのです。一部の人々はパンを裂いて分け合っていたかもしれません。10章の記述を見ると、そのように思われます。ただ大多数の人はそんなことには頓着(とんちゃく)せず、単なる持ちよりの食事会にしてしまい、愛餐会にもなっていなかったのでしょう。それでパウロは、改めてキリストが定めてくださった聖餐を持ち出し、教会とは、キリストのからだと血によって贖われた、愛の共同体である事実を思い起こさせ、キリストによって一つにされた霊的次元での事実を、まず、食事の場で現実のものとしようと願ったのです。



  そのためには、まずコリントのクリスチャンたちが、キリストの死とその意義を鮮明に思い起こす必要がありました。分け合うパンとぶどう酒の意味をもう一度思い出し、確認し、キリストのみ前に厳かになることが必要でした。自分たちは赦された罪人であるという事実をもう一度確認し、互いに赦し合い受け入れ合う心になる必要がありました。聖餐は、それにあずかる人々を、ふたたび、キリストの十字架の前に立たせるのです。自分の罪のもたらした結果の恐ろしさに震え、自分の罪の大きさに潰れ、贖いの愛の大きさに感涙し、贖いだされた者たちが互いに感動を分け合い、一つの共同体として生きるようにされた事実に、振るい立つようにするのです。


                         つづく









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2010年10月19日

礼典の意義について (6)



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U. 聖餐について



  聖餐についての見解や考え方にも、さまざまな伝統があり、それぞれずいぶん異なっています。ただ言えることは、キリストが教えてくださったように、わたしたちが伝統にとらわれずに正しく聖書を読もうとするならば、多くの相違は解消してしまう性質のものです。



 U.A. 伝統的聖餐観



  今わたしたちに引き継がれている伝統の中で最も古いのが、ふつう化体説(かたいせつ)と言われるカトリックの聖餐観です。このような聖餐観が成立したいきさつにも、それなりの背景と理由があったのですが、それは聖書に学ぶこの試みには関わりがありません。化体説とは、聖餐に用いられるパンとぶどう酒は、パンとぶどう酒の色と形と匂いを保ちながら、つまり、物質としてはパンとぶどう酒のままでありながら、その本質においてキリストのからだと血に変化すると教える説です。どのように理屈をつけても、いささか迷信的、魔術的匂いのする説です。カトリックのミサはこの聖餐式、彼らの言葉で言う聖体拝受(せいたいはいじゅ)を行うための祭儀です。ですからミサが行われるたびに、パンとぶどう酒は文字通りキリストのからだと血に変化し、くり返して捧げられる犠牲となります。それにあずかることによって、信徒たちは罪の赦しを受けることになるのです。逆に言うと、それにあずからないことは罪の赦しにあずからないことになり、罪が蓄積していくことになります。それで、ミサに出席しないことは赦されない罪となるわけです。(ここから、ミサが行われる日曜日がことさらに重要視され、「新約時代の安息日」という言い方も生まれ、それがプロテスタントの日曜礼拝会厳守の観念につながりました)



  通俗的カトリック信徒の間では、月曜日や火曜日、あるいは水曜日あたりに罪を犯すことを非常に恐れる習慣があります。ところが土曜日の夜、特に明け方になると、飲めや歌えの、乱痴気騒ぎをし、切った張ったで、女遊びに出かけることになります。たとえどんなに大きな罪を犯しても、日曜日の朝早くにはミサが行われ、聖体拝受にあずかり、すべての罪が許されるからです。月曜日や火曜日に罪を犯すと、ミサまでは相当な間があり、その間に死んでしまったら、赦される機会がないままになるというわけです。このようなことを、カトリック教会が本当に教えているわけではないと思いますが、通俗的な信徒の間では、広く受け入れられているものです。



  このミサもずいぶん昔から、信徒があずかることが出来るのはパンだけとなっています。文字通りキリストのからだと血になったパンとぶどう酒をこぼしてしまったとき、パンなら拾うことも出来ますが、ぶどう酒は「覆水(ふくすい)盆に還らず」の喩えのように、取り返しがつかず、キリストの血を汚すこととなるため、信徒には渡さずに司祭がみな飲んでしまいます。これをカトリックは血の伴わない犠牲と呼んでいます。カトリックにとって、聖餐はくり返して捧げられるキリストの犠牲なのです。もちろん彼らは、キリストの犠牲はただ一度だけ捧げられた完全な犠牲であるという、聖書の教えを無視しています。(ヘブル7:27、9:12) また、血の流されないところには罪の赦しもありえないという聖書の教えにも無頓着です。(ヘブル9:22) 聖体拝受の教理が制定されたとき、カトリックの人々にとって、聖書の権威は非常に低く、現在よりもまだ低く見積もられていたためです。



  心ならずともカトリックと縁を切ることになったルターは、多くの点で、カトリックの教えを離れようとはぜず、さまざまな伝統と習慣を引き継いでいますが、聖餐観においても非常にカトリックに近いものです。有名なツイングリとの会談で、他のあらゆる点では協調して協力できるところまで漕ぎ着けながら、最後の障害になったのがこの聖餐観でした。パンとぶどう酒はキリストのからだと血を象徴すると主張したツイングリに対し、ルターは、「これはわたしの体、わたしの血である」とおっしゃったキリストの言葉を指し、パンとぶどう酒はあくまでも文字通りキリストのからだと血であると主張してやまなかったのです。こうして二人の宗教改革の指導者は折り合うことが出来なかったのです。ルターの聖餐観はカトリックとまったく同じというわけではありませんが、ほとんど同じと言っても良いほどです。もしも、聖餐のパンとぶどう酒が文字通りキリストのからだと血に変化するのなら、つまり、くり返して捧げられる犠牲ならば、「キリストを覚えて」食べたり飲んだりする必要はなくなります。パンとぶどう酒を飲むだけで充分な効果があるからです。キリストがおっしゃった「わたしを覚えて」という言葉の重みを考えなければなりません。パンとぶどう酒が意味を持つのは、「キリストを思い起こさせる」からです。



  これに対して、もう一人の改革者であるカルビンは、ルターとツイングリの間の見解を取りました。聖餐に用いられるパンとぶどう酒は、キリストのからだと血に変化することは無いが、それを感謝して受け取るときに、そこに、特別な意味でキリストが共にいてくださると説いたのです。カトリックの聖職者としての訓練をしっかり受けていたカルビンから、カトリック的な、魔術的要素を完全に拭い去ることは出来なかったのでしょう。ツイングリもカトリックの教育と訓練を受け、従軍司祭として働いたことはありましたが、ルターやカルビンほどカトリック的ではなかったようで、さまざまなカトリックの腐敗に対して糾弾の声を上げています。スイスにおけるツイングリの働きはやがてカルビンの働きに吸収されていくことになるのですが、彼の聖餐観はより急進的なアナバプテストの人々に受け継がれて、現在のバプテスト教会の中に流れています。



  わたしたちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、基本的にツイングリの聖餐観を採りますが、カルビンの聖餐観を採ったからと言って、目くじらを立てることはありません。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる方は、(エペソ4:6) 聖餐のパンとぶどう酒の中にもおられます。それとまったく同じ意味で、犬の体の中にも、鯨の体の中にもおられます。地球上で最も密度の高い物質で、直径100mの隙間のない球体を作り、その中に神はいないと言っても、神はその中にもおられます。神はすべてのものを貫きすべてのものの中におられるのです。ですから、聖餐のパンとぶどう酒の中にも神はおられ、パンとぶどう酒とともにいてくださるのです。



  カトリックやルターがパンはキリストのからだであり、ぶどう酒はキリストの血であると主張した背景には、キリストの臨在を物質的に、あるいは物理的に捉えていたような節が見て取れます。しかし、すべての次元を超越して臨在してくださるキリストに、第三次元の物質の補助、仲介は不要です。パンがあろうが無かろうが、ぶどう酒があろうが無かろうが、キリストは臨在しておられるのです。パンを食べたから、キリストを飲み込むわけではなく、ぶどう酒を飲んだからキリストを吸収するわけでもありません。霊的次元のリアリティに、この物質の世界の物質の仲介は何の役にも立ちません。ただ神は、物資の助けを用いることによって、かなり物質に支配され、物質に影響され、見えること、触れること、味わうこと、嗅ぐこと、聞くことに左右されながら考え、理解するほかない人間を教え導こうとされたのです。つまり、物質に象徴的な意味を持たせて、教育をしてくださったのです。



  もしもルターのように、キリストがパンとぶどう酒を取り上げて、これはわたしのからだ、わたしの血であるとおっしゃったのだから、これは文字通りキリストのからだと血であると理解するならば、キリストは文字通りのぶどうの木であり、文字通り門であり、文字通り光であり、文字通り羊飼いであり、文字通り小羊であることになります。これはキリストがしばしば用いたレトリック、話法に過ぎないのです。そういうわけで、わたしたちは聖餐式に用いられるパンとぶどう酒は、何の魔術的力、神秘的力を持つものではなく、あくまでも単なるパンとぶどう酒に過ぎないと判断します。



  洗礼を受けたクリスチャンでなければ、聖餐にあずからせないとか、少なくてもクリスチャンになっていなければ、聖餐にあずからせないプロテスタント教会の伝統は、カトリック教会の魔術的な要素、言葉が悪ければ、神秘主義的な要素の残滓であって、聖書のあずかり知らない考えです。聖書主義を唱えるプロテスタントの神学が、まだ完全に聖書に立つことが出来ないでいる、情けない姿です。キリストを信じていないものが聖餐にあずかることは、尊いキリストの血と体を汚すことになると、思い込んでいる人が多いのです。彼らは、Tコリント11:27に記されている、「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主の体と血にたいして罪を犯すことになります」というパウロの言葉を引用し、自分たちこそ聖書の教えに従っている主張します。



  この考え方と聖書の引用は、大多数のプロテスタント教会が伝統的に守ってきたもので、わたしたちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドもその一つです。わたしたちは単純に聖書を読み、表面的に理解する伝統を引き継いで来たために、案外単純な読み違いも犯して、多くの教会の伝統を疑わずに継承してしまったわけです。ここで、パウロの言っていることを前後関係から理解しようとすると、つまり、ごく初歩的な聖書の読み方の基本を思い出して読み直すと、自分たちの間違いに簡単に気づくはずなのです。そこで、実際にやってみましょう。まず、Tコリント11:17〜34を数回くり返して読んでみましょう。先入観を捨てて、素直に読んで見ましょう。



  パウロがここで問題にしているのは、聖餐にあずかる人たちがクリスチャンであるかどうかではないことに気づきます。パウロが問題にしたのは、「クリスチャンの中の」ある人たちです。そのある人たちとは、金持ちたちです。なぜ問題になったかというと、彼らは教会で一緒に食事をするとき、自分たちだけさっさとたらふく食べ、貧しくて食べるものが無い人たちを省みなかったからです。その弱い人を省みない態度、愛の無い態度をパウロは非難して、主の「みからだをわきまえないで飲み食いする」と表現したのです。つまり、ここでパウロがいう「みからだ」とは、十字架の上で傷ついたキリストの肉体ではなく、キリストがその頭である「みからだ」、すなわち教会のことです。彼らの弱いものを省みない態度が、教会に分裂を持ち込む一つの要因であったことが分かります。



  同じ命に生かされ、同じ聖霊に満たされ、同じ希望を持って生きる共同体、本来、愛し合い、助け合い、励まし合い、共に喜び、共に涙を流すべき共同体である教会、すなわち主の「みからだ」である教会が、片方ではさっさと飲み食いし、満腹し、酔っ払っている者があるかと思うと、もう一方には、食べるものが無いまま放置されている人々がいる状態だったのです。それをパウロは、「みからだをわきまえないで飲み食いする」と表現したのです。つまり「ふさわしくないままでパンを食べ杯を飲む」とは、教会が何たるかをわきまえず、本来愛の共同体として、喜びと悲しみを分け合う存在であるはずなのに、こともあろうに差別と冷淡さと無関心の集まりにしていることだったのです。



  くり返しますが、問題にされているのは聖餐にあずかる人が、クリスチャンであるかどうかではありません。それにもかかわらず、わたしたちの教会が、オープンだクローズだと騒ぎ、(自分たちの教会員ではなくても、正統な教会で洗礼を受けている者には聖餐にあずからせるのを「オープン」といい、自分たちの教会員以外にはあずからせないのを「クローズ」と言います) 洗礼を受けていない者には、救いの確信が持てないから聖餐を控えさせるべきだとか、子どもには聖餐を渡すべきではないなどと侃侃諤諤(かんかんがくがく)と遣り合っているのは、(いまでも遣り合っています)聖餐のパンとぶどう酒に何か神秘的な力を認めているか、カトリック的な魔術的観念を、心の隅っこにでも持ち続けているからだと言えるでしょう。



  もしも、聖餐のパンとぶどう酒がキリストのからだでも血でもないとするならば、未信者がそれを飲もうが、子どもがそれを食べようが、何の害も受けることはなく、何の益もありません。あえて言うと、普通のパンとぶどう酒を食べまた飲むのと同じ益を受けるだけです。パウロが非常に厳しく、あたかも呪いでもあるかのように表現した、さばきとその結果の弱者や病人や死者なども、(11:29〜30) 未信者が飲み食いしてキリストの肉体を汚したからではなく、差別と冷淡さと無関心をもって、「みからだ」である教会をないがしろにし、傷つけたからなのです。パウロは同じ手紙のなかで、「もし、だれかが神殿(教会のこと)をこわすならば、神がその人を滅ぼされます」と、厳しい言葉で語っていることを思い出すべきです。(Tコリント3:17)



  さらに、パウロがここで聖餐を持ち出したのは、救済論の問題としてではなく、つまり、誰がクリスチャンで誰がクリスチャンでないかという問題ではなく、教会論の問題として、しかも実践神学の問題としてであったことを、しっかりと聖書を読んで確認してください。そして、わたしたちプロテスタント教会が、いかにカトリックの誤った伝統を引き継いできたか、わたしたちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドまでが、いかに非聖書的な伝統に引きずり回されてきたかを、はっきりと理解してほしいものです。もちろん、だからといって聖餐のパンとぶどう酒を粗末に扱えと言っているのではありません。主の贖いの象徴なのですから、それにふさわしい取り扱いをすべきなのです。



  では、このパンとぶどう酒を、未信者や子どもが食べたり飲んだりした場合、それは罪になるのでしょうか。少なくても聖書はその様には語っていません。むしろ、当時の教会では未信者も一緒に聖餐にあずかっていたと理解すべきです。この当時の聖餐はいまだ「式」とはされておらず、少し後には「アガペー」と呼ばれるようになった愛餐会だったのです。あるいはその愛餐会の中に、パンを裂いて分け、杯を回して飲むひと時がふくまれていたかも知れません。そのような場に、未信者がいることは、むしろ普通であり、当然、パウロもそれを想定していました。(参照:14:22〜25) ところがパウロは、そのような場で、未信者を聖餐にあずからせてはならないと指導してはいないのです。子どもは避けなさいとも教えていません。パウロにとっては、パンを食べぶどう酒を飲むことが大切だったのではなく、キリストを思い起こし、信仰を持って食べ、信仰を持って飲むことが大切だったからです。パンとぶどう酒の意味を理解もせず、信仰も持っていない者がそれにあずかっても、害も無ければ益もないのです。



 U.B. 聖書から学ぶ聖餐観



  聖餐に関する聖書の教えは、洗礼についてのものよりかなり多く、それだけ学びやすくなっています。



    U.B.1. キリストの教え


  キリストの聖餐に関わる教えは、最後の晩餐の場で与えられたものが三つの福音書に記録されていて、とても良く知られていますが、もう一つ非常に大切な教えが記録されていることを見逃してはなりません。それは、最後の晩餐での聖餐の制定について記録していないヨハネが記録したもので、二匹の魚と五つのパンで5千人を養った出来事に関連して、ヨハネの福音書6章全体にわたって記されています。



     U.B.1.a. ヨハネ6:1〜59


  キリストはご自分を天から下ってきた真のパンであり、いのちのパンであると語り、続けて、ご自分の肉を食べ血を飲まなければだれもいのちを持たず、ご自分の肉を食べ血を飲む者は永遠のいのちを持つと、お教えになりました。キリストのこの言葉を聴いた多くのユダヤ人たちは、「これは酷いことばだ」と躓(つまづ)き、弟子たちの多くもキリストを捨てて去ることになりました。キリストは、当然、その様な結果をもたらすことを良くご存知の上で、あえてこのようにお話しになったはずです。つまり、それほど大切な教えであったのです。



  ユダヤ人たちは、このときもキリストの喩え、あるいはレトリックを理解することが出来ず、キリストの肉を食べ血を飲むという表現を字義通りに受け取り、「これは酷い」と言ったのです。食物に対する戒律が厳しく、禁じられた食べ物を激しく忌み嫌うユダヤ人にとって、人の肉を食べ人の血を飲むなど、聞くだけ思うだけで戦慄(せんりつ)したのだと思います。それを良くご存知の上でキリストがこの話をされたのですから、その強烈な印象を狙い、記憶に留めることを狙ったのだと思われます。そこまでの危険と不利益を承知の上でのことですから、その意味をしっかりと理解する必要があります。



  キリストが、ご自分の肉を食べ血を飲むという言葉で表現されたのは、「信じる」こと、あるいは「受け入れる」ことだと理解できます。荒野でマナを食べた人たちは、そのマナから栄養を取り、自分の血肉としていきました。同じように、天から下ってきたパンであるキリストを信じ、受け入れ、自分たちの血とし肉としなさいという意味です。ここでキリストが、ご自分の肉を食べ血を飲むという言葉を、文字通りの意味ではなく、あくまでも喩えとして、レトリックとしてお用いになったことが非常に重要です。これは明らかに、最後の晩餐での教えを前提として、その備えとして与えられたと考えられるからです。



  カトリックの人たちは、このキリストのおことばを文字通りに解釈し、その肉と血とはミサで与えられるパンとぶどう酒であると主張します。そこで、ミサにあずからない人たちは命を持たないことになるのです。わたしたちは聖書の言葉をことごとく喩えやレトリックにして、自分勝手な解釈を持ち込み、聖書の教えを曲げてしまうことには反対しますが、喩えやレトリックが多用されていることも認め、注意深く意味を探らなければなりません。実際問題として、物質としてのキリストの血と肉に、意味を認めようとすること自体が間違っています。キリストは完全な人間として、人間の肉体をお取りになったのです。その肉体はふつうの人間の肉体と変わりませんでした。その肉体を飲み食いしたところで、霊的な益をもたらすことはありません。キリストの肉体が、キリストの肉体であるゆえに特別に魔術的な力を持ち、人を生かしたり殺したりすると考えるのは、まさに中世的と言わざるを得ません。キリストが最後の晩餐で用いたと言われる杯を「聖杯」としてあがめたり、十字架を背負って歩むキリストの顔をぬぐったハンカチを、特別に聖いものとして追い求めたりするのと、同じ低次元の迷信的な考え方です。物質に閉じ込められた三次元の世界に生きて、物質の媒体を通さなければ霊的な事柄を理解できない人間のために、神は物質を用いて霊的次元のことをお教えになったのです。ところが人間は、逆にその物質に囚われてしまい、霊的なことを理解しないままで終わることもあるのです。



      U.B.1.b. 最後の晩餐における制定


  キリストが、最後の晩餐で聖餐を制定してくださったことについては、マタイ、マルコ、ルカの3人が記録しています。(マタイ26:17〜29、マルコ14:12〜25、ルカ22:7〜20) これらの記録から、学んでいきましょう。



  1) キリストの死とその意義を思い起こさせる

  キリストが聖餐を定めたのは、何かのついでとか、たまたまとかではなく、しっかりと時を選んで行われたことです。キリストは過越しの祭りを待ちわび、わざわざ弟子たちと過越しの食事をする準備をし、その食事の中で聖餐をお定めになっています。(ルカ22:15) キリストはなぜわざわざ過越しの祭りを待ち、その日を聖餐の制定の日として選んだのかを明らかにしていませんので、推測する以外にありません。とはいえ、聖餐が過越しと深いかかわりをもつことは、キリストの言葉からも容易に推測されますし、(ルカ22:16) なぜ、過越しの日が選ばれたのかを探るのも、さほど困難なことではありません。



  過越しが、単にイスラエルの救いという歴史的事実を思い起こさせるだけではなく、キリストの贖いを予表していたことは、誰もが知っていることです。(Tコリント5:7) バプテスマのヨハネが叫んだように、キリストは「神の小羊」だったからです。過越しの祭りは、キリストの贖いの働きをあらかじめ告げ、それが起ったときに、キリストの死の意味を理解させるために役立ちました。聖餐は、歴史的事実を思い起こさせた過越しの食事のように、キリストの死の事実とその意義について、振り返って思い起こさせるために、あらかじめ定められたのです。キリストは「わたしを覚えてこれを行いなさい」とおっしゃっています。(ルカ22:19) キリストのお言葉によると、聖餐は罪の赦しを与えるために定められた秘蹟ではなく、キリストを思い起こさせるためのもの、特に十字架の死とその意味を思い起こさせるための、象徴的行為、象徴的儀式なのです。



  2) キリストのからだとキリストの血を象徴する

  最後の晩餐で食べられたパンと飲まれたぶどう酒は、これから裂かれることになっていたキリ
ストの体と、流されることになっていたキリストの血を意味していました。その時点ではパンとぶどう酒は、まだキリストのからだと血を予表するものでしたが、キリストの死後は、すでに裂かれたキリストのからだと、すでに流されたキリストの血を象徴し、キリストの死とその意義を思い起こさせる役割を持つものとなったのです。



  パンを食べぶどう酒を飲むことの意味は、かつて5千人を養った後にお語りになったキリストの教えで明らかです。裂かれたキリストのからだを象徴するパンを食べるとは、キリストのからだは自分のために裂かれたと信じることを表現し、流されたキリストの血潮を象徴するぶどう酒を飲むとは、キリストの血は自分のために流されたと信じることを表現します。その信仰こそが、ありふれたパンとぶどう酒を象徴としての意義のあるものするのであり、司祭の祝福がキリストのからだと血に変えるのでも、牧師の祈りが象徴に変化させるのでもありません。そういうわけで大切なのは、キリストの死が自分のためであったと信じる信仰であり、パンとぶどう酒の成分でも色や形でもありません。



  3) 新しい契約に入ったことを確認させる
さらにキリストは、杯を取り上げ「これは、わたしの契約の血です」とおっしいました。(マタイ26:27、マルコ14:24) ルカの福音書には、さらに明確に「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と記されています。聖餐は、キリストの十字架の死がわたしたちの身代わりのためであっただけではなく、モーセによる古い契約を終わらせ、新しい契約に入った事実を示します。人は、律法を厳守することによってではなく、信仰によって救われる新しい契約の事実を思い起こさせ、しっかりと確認させるのです。



  わたしたちはもう昔のように、こと細かに律法を守り通し、多くの動物の血を流しながら救いを渇望するようなことは、しなくてもよいのです。神の小羊であるキリストの完全な血潮が、ただ一度だけ捧げられることによって贖いが完成したからです。わたしたちは律法の行いによってではなく、キリストの完全な義を着せられることによって、義と認められるのです。その成し遂げられた完全な贖いと、キリストの完全な義を、わたしたちはただ信仰によって自分のものとするのです。杯を飲む行為をもって、わたしたちはその信仰を告白するのです。



  わたしたちはいまや、古い律法に縛られて生きているのではありません。キリストにある自由によって生かされ、喜びに溢れています。だから、再びさまざまな規定や掟に捉われて、二度と奴隷のくびきに繋がれることがないように、聖餐にあずかるごとに、感謝と共に、新しい契約を確認し直すのです。(参照:ガラテヤ5:1)



  4) 過越(すぎこ)しの完成を待ち望む
過越しの祭りという特別の日を選んで、最後の晩餐を開き、そこで聖餐を制定するに当たって、キリストは次のようにおっしゃいました。「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ26:29、マルコ14:25) 「あなたがたに言いますが、過越しが神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越しの食事をすることはありません・・・・・今から神の国がくるまでは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(ルカ22:16〜18) これらの言葉の厳密な意味はさておいても、ここに神の国の到来、過越しの成就、あるいは御国において飲むときに対する、キリストの強烈な期待が表現されていることは確かです。



  つまり、過越しがキリストの十字架での贖いの死を予告するものであったと同じように、聖餐はやがて到来する神の国を予告し、期待させるものなのです。そのときわたしたちは、完成された御国においてもう一度ぶどうの実で造った物を飲むのです。しかもキリストと共に飲むのです。わたしたちはまだ、天の御国の宴会につらなる喜びの大きさ、完成された御国で飲むときの晴れやかさ、キリストと共に席に着く誇らしさも輝かしさも、よく理解してはいません。だからあまり期待もしていません。ところがそれをよくご存知のキリストの期待は、非常に高く大きなものです。



  キリストはそのときまでは、決して過越しの食事をしない、ぶどうの実で造った物を飲まないと約束してくださいました。キリストの期待は「ぶどう断ち」をしてくださるほど、大きかったのです。日本でも、何かの請願を立てたり期待を表現したりするための、何かを断つことが行われていましたが、イスラエルでも同様の習慣があったようです。ぶどうが通常の食生活に深く入り込んでいたスラエル人にとって、ぶどうを断つのは相当大変なことに違いなかったはずですが、キリストはそのような表現でご自分の期待を示してくださいました。聖餐式はキリストの死を振り返るものであると共に、やがて来る御国の完成を期待させるものであり、強い終末論的意味を持つのです。わたしたちは神の国完成、救いの完成を遠くに見つめながら、聖餐をいただくのです。


                        つづく








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2010年10月18日

礼典の意義について (5)



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     T.F.1.c. すべての教会は一つ


  すべてのクリスチャンは、同じキリストのからだにバプタイズされました。人種、文化、言語、貧富、教育、老若、男女、その他あらゆる差異を超えて、すべてキリストを信じたものは、同じ一つのからだに繋げられたのです。同じキリストのからだの一部分となったのです。すべての敵対、差別を乗り越え、超越するのが教会です。ありとあらゆる隔ての壁を打ち壊して、建てあげられた、一致と愛の共同体が教会です。 



  実際問題として、真実が明らかにされるためには分派もやむを得ないこともありますが、(Tコリント11:19) 一つであるという霊的事実を、出来るだけ忠実に具現化していくのが本来の教会のあり方です。すべての真実の教会は、みな同じいのちにあずかり、おなじ御霊によって生かされ、同じ永遠の命を共有し、同じ救い主に従おうとしています。同じ御霊による愛の共同体が教会です。そのなかに、争いや分裂があってはならないのです。そのようなことをパウロは厳しく糾弾し、「もし、誰かが神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神殿は聖なるものだからです。あなた方がその神殿です」と語っています。(Tコリント3:17) ここでは、教会は「神殿」と喩えられていますが、この教会をこわすものは、神によって滅ぼされる」と非常に厳しい言葉で警告しているのです。ここで言われている「こわす」とは、自己中心な思いのために教会に分裂分派を持ち込むことです。



  すべての教会はキリストによる一致で結ばれているべきであり、結ばれているはずなのです。それが大祭司キリストの切なる祈りでした。(ヨハネ17:1〜26) ところが現状は、非常に残念なことに、教会があまりにも醜く分裂しているのです。パウロが語った、真理が明らかにされるためのやむを得ない分裂ではなく、つまり、神学的理解や聖書解釈の違い、あるいは何か正当な理由があって袂を分かつことではなく、単なる自己中心や虚栄心、あるいは競争心や闘争心による、支離滅裂(しりめつれつ)な分裂状態です。一つの教会の原則、すべてのクリスチャンは一つのからだ、キリストのからだである教会にバプタイズされているという霊的事実が、まったく理解されていないか、無視されているための脈略のない分裂です。誰も彼もが「民主主義という名の自己中心」を前面に押し出した、わがまま勝手の仲たがいです。誰も彼もが龍尾(りゅうび)になることをよしとせず、鶏頭(けいとう)となろうとするための混乱です。「鶏口(けいこう)となるとも牛後(ぎゅうご)になる勿(なか)れ」は中国の諺で、聖書の教えと正反対です。



  フランス革命を経て発展した、近代個人主義の洗礼を受けたプロテスタント・キリスト教の多くは、個人の救いを強調しました。個人の自由を神に与えられた賜物として称揚しました。救われた個人の自由な意思による、あるいは任意の集まりである教会を強調しました。それぞれの教会の自由と独自性を強調しました、各々の教会の独立独歩を強調しました。単立教会であることがあたかも素晴らしいことであるかのように勧められ、励まされてきました。誰にも頼らずにただ神のみに頼るという独立教会が、理想であるかのように教えられてきました。その結果、誰にも頼らず、誰にも頼られたくない、個人主義的伝道者や個人主義的牧師が多数輩出されてきました。



  教会の言うことにも、同労者の言うことにも、正しい聖書の解釈にも耳を貸さないで、ただ神様にだけ聞いていると、臆面もなく主張する牧師たちが増え続けています。多くの牧師たちは自分の教会のことで夢中になり、他の牧師が担当している教会にはまったく注意を払いません。大きく成長している教会ならば、何か参考になることはないか、学び取るものはないかと調べもしますが、小さく弱い教会ならば、どんなに傷もうが、苦しもうが、関心を払いません。成功している牧師に秘訣を学ぼうと訪れることはあっても、弱小教会の伝道者がどれほど苦境にあえいでいようが、どれほど傷ついていようとどこ吹く風です。教団といっても、このような牧師たちと彼らに指導される教会の集団では、中小企業組合とあまり変わりがありません。自分の益になるなら加入もしますが、益がないとわかるとさっさと離れてしまいます。



  それどころか、他の教会や牧師や信徒たちを利用して、自分を売り込み、自分の働きを大きくするのに夢中になっている牧師や教会、あるいは、いわゆるパラチャーチが続々と出現しています。他者の犠牲の上に成り立っている「キリスト教組織」がそこここに出現し、牧師や伝道者の仕事を金もうけの手段にしているものも少なくありません。そのような企業家的伝道者たち、合資会社的教会(株式会社ほど規模が大きくない)が注目を浴びているのです。この世の中の競争原理とまったく変わらない、資本主義のスピリットが教会の中に持ち込まれているのです。空中の権を持つ支配者に従っていたときと変わらない、個人を賞賛して止まない精神、個人の利益、個人の利潤を最優先とするアダム以来の精神が、本来の愛の教会のあり方を台無しにしているのです。



  教会はキリストのからだです。自分の名誉や栄光を捨てて神の栄光を求め、他者のために自分を犠牲にしてくださった、キリストを頭とする人々の集団です。他の人々の益のために喜んで自分を捧げて行くことを理想とする人々の共同体です。個人主義や民主主義の原則によって生きる集団ではありません。そこで大切にされるのは単立や独立ではなく、共存や協力、助け合いや支え合いです。自分だけ栄えることではなく、自分の栄を犠牲にしても同じからだに属するほかの部分のために尽くすことです。互いに相手を思いやり、生かし合いながら進んで行くことです。信徒同士がいたわり合い、伝道者同士が痛みを共有し合い、教会同士が助け合い、他の教団他の教派、さらには国際的なキリストのからだにもその愛の手を伸ばして、ネットワーク化していくはずのものです。同じ一つの御霊によって、同じ一つのからだにバプタイズされたものとして、自覚をもって、霊的次元の事実をこの日常の世界で具現化する、クリスチャンの生きかたを追求して行きたいものです。



  牧師は自分の担当している教会の所有者ではありません。たとえそれが、誰の助けも借りずに自分ひとりで開拓した教会であっても、個人商店のように、自分が所有するものではありません。大きな共同体、主のみからだの一部であり、主が頭であり、主が「私の教会」とおっしゃる教会なのです。牧師は、一時的にその地域教会の養育と指導と管理を担当させてもらっただけです。担当期間が長ければ長いほど、牧師の「教会私物化」の危険が増します。牧師が監督性を取っている教会ほど、私物化の傾向が強くなります。私物化の潜在(せんざい)意識が強くなると、独りよがりで勝手気まま、わがまま一杯の牧師になりがちです。中小企業のワンマン社長のような牧師が増えてくるのです。



  わたしたちは、完全な教会などは存在しないという事実を認めます。教会が、救われた罪人に過ぎないクリスチャンの集まりであるという事実は、あらゆる弱さと醜さ、不完全さとなって現れています。しかし教会はまた、同じキリストの命に生かされ、同じ聖霊の力によって生きるものです。不完全な中にありながら、理想を目指して進むものです。牧師や伝道者たる者は、ローマの信徒に対するパウロの言葉を、自分に語られている言葉として聞くべきです。「私たち力のあるものは、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません」(ローマ15:1)



  現代の教会が、支離滅裂(しりめつれつ)な分裂状態にあって、まさに目を覆いたくなる有様になってしまった原因の一つは、間違いなく、聖書が教える教会観の喪失です。洗礼と聖餐の理解の不足にも関係する教会観の脆弱(ぜいじゃく)さが、現代の混乱をもたらしているのです。だからこそ、いま、教会はキリストを頭とした一つの有機的共同体であるという、霊的真実が強調されなければならないのです。すべてのクリスチャンは、同じ一つのキリストのからだに、おなじ一つの御霊によってバプタイズされたという霊的次元の事実が、もう一度理解され、受け入れられ、日常の現実の中で具体的に表現されなければなりません。



  教会そのものに対する理解、教会の組織、活動のすべてが、聖書の教える教会観に従って整え直されなければなりません。牧師や伝道者の自覚や活動も、聖書の教会観に合致するものに打ち直されていかなければなりません。信徒同士の関係や地域教会同士の関係も、改めて聖書の教会観にならって構築されていかなければなりません。それが急務なのです。



    T.F.2. 信徒をどう取り扱うか


  ではクリスチャンは、いつの時点でバプテスマを受けるべきでしょう。聖書の洗礼の例を探ってみると、ほとんどが「善は急げ」、「思い立ったが吉日」で、キリストを救い主と信じ告白した直後に受けていることが分かります。バプテスマが、霊的次元でのバプテスマの象徴、目に見える表現であり、正式に教会に加えられたと認められる儀式だとすると、霊的次元での出来事が起った直後、出来るだけ早くがふさわしいと言えます。



  ところが多くの教会は、当然のように洗礼準備期間をおき、受洗コースなどという名の勉強を強いています。また受洗志願者審査会などという重々しい会をおいて、バプテスマを望む者がそれにふさわしいかどうか、こまかくチェックしたりもしています。筆者がまだ聖書学校の生徒だった頃、ある地方の開拓教会に実習生として派遣されていたときの出来事です。礼拝会のあと、昼食を済ませてから、近くの海岸で数人の洗礼式を行う手はずになっていました。若い担任牧師はまだ洗礼を授ける資格が無いため、年配の牧師が訪ねてきてくれた機会を逃したくなかったわけです。ところが洗礼志願者の一人が昼食を早々と済ませてやってきて、物置小屋を改造した会堂の粗末なベンチに腰を下ろし、タバコをふかし始めたのです。「悪いことに」、そこに年配の牧師が入ってきたのです。彼は早速、若い担任牧師を陰に呼び、あの男は洗礼を受けるにはふさわしくないから、そのように言い渡すようにと告げたのです。若い担任牧師は言われたように指導したようですが、その求道者を再び見ることはありませんでした。



  ある教会では、信徒が一定の生活態度の標準に達するまでは、洗礼を授けようとしません。酒を止め、タバコを捨て、ギャンブルに背を向けて・・・・と、目に見える生活態度の変化を重要視する場合もありますし、「キリスト教の教え」を勉強させて試験をし、60点以上取らなければ授けないという教会もありました。その結果、洗礼志願者の多くが、間違いなく霊的な次元でのバプテスマを体験していながら、その象徴である水のバプテスマを受けられないことになり、霊的バプテスマの事実と意義が無視されてしまっています。多くの教会は、生活態度の悪い人が自分たちの教会のクリスチャンと見られると、教会の証にならないと言います。また、聖書の教えをよく理解しないままバプテスマを受けると、堕落しやすく教会の汚点になると言います。

 

  一方、ほかの教会では同じような配慮から、洗礼と教会に加わることを切り離してしまいました。たとえば、アメリカのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会の多くは、洗礼は信仰の告白だけを条件にどんどん授けていますが、教会員となるためには、別に申請書を提出し、教会の審査を受けなければならないことになっています。つまり、洗礼は授けるけれど、教会には受け入れないこともあるわけです。そのようにして、教会と関係の無いクリスチャンを大量に作り出しています。教会員になるためには、その教会の基準に達し、条件を満たさなければならないのです。ホーリネスの流れを汲むことが多い、アメリカのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会の場合、基準や条件の多くは、酒だのタバコだの、ドラッグだの、同棲だのと、道徳的な側面を見られることが多いようですが、伝統的な教会では、人種とか身分とか職業までも加わってきます。



  家庭に赤ちゃんが生まれると、大抵は、家の中が汚く騒がしくなります。とても手がかかり、面倒なことがたくさん出てきます。それを嫌っていては赤ちゃんを持つことが出来ません。ですから、清潔で整った生活環境を大切にする最近の日本の家族が、あまり赤ちゃんを持ちたがらなくなったというのも、分からないではありません。とはいえ、生まれて来た赤ちゃんに、「我が家は清潔をモットーとしているから、自分で食事をし、自分で排便し、自分で身の周りのことが出来るようになったら、戻ってきなさい」と言い聞かせて、家から追い出すなどということはあり得ません。



  教会に新しい信徒が生まれると、清潔な家庭に赤ちゃんが生まれたのと同じような現象が起ります。騒がしく、汚く、あわただしくなり、面倒なことがたくさん起ります。でもそれを嫌って、彼らを教会から遠ざけていては、彼らが正しく成長することが出来ません。赤ちゃんには家庭が必要なように、新しい信徒には教会が必要なのです。ところが現実には、わたしたちの教会は赤ちゃんを追い出すようなことを行っているのです。



  昔、ニューヨークに引っ越してきた田舎の大工さんが、有名な教会に出席し始めました。そしてその教会のすばらしさに感動して、自分たち家族も教会員にしてもらえるように、申請書を出したそうです。ところがいくら待っても何の返答も無いので、恐る恐る役員に尋ねてみると、「いろいろ立て込んでいて、審査の時間が無いのでもう少しお待ちください」ということでした。そんなことを幾度かくり返し、自分より後からやってきた人たちが先に教会員として受け入れられていくのを見て、悲しくなった大工さんはお祈りをしました。「イエス様、わたしはもう長い間この教会に受け入れてもらおうとしてお願いしているのですが、何の返事もいただけません」するとイエス様が応えておっしゃったそうです。「お前はわずかのあいだ待っただけで、もう音を上げているのか。わたしなどは、この教会が建って以来ずっと、入れてもらおうと待ち続けているのだ」



  無教会主義を唱え、教会は要らない。牧師も要らない。洗礼式も、聖餐式も要らない。日曜礼拝会も要らないし献金も要らないと突き進んだ内村鑑三は、アメリカに留学したとき、その種の教会に出席して、冷たい仕打ちに遭ってしまったのでしょう。そのために、せっかくの彼のすばらしい働きも、ずいぶん亜流とされてしまいました。非常に残念なことです。



  霊的な普遍的教会の地域的顕現である地域教会は、霊的な普遍的教会が自分の一部として受け入れた信徒を、拒絶する権利や権限あるいは自由を持っていません。本来、すべてのクリスチャンを受け入れなければならないのです。ただ、一つの地域教会は、必然的に、その教会独特の性質を持つことになります。そしてその性質に合わない人は自然に離れていくことになりがちです。それでいながら地域教会は、できるだけその様な人を受け入れることが出来るように努力し、それが出来ない場合は、その人が受け入れられ、また喜んで活動できるような資質を持った地域教会を、紹介してあげる努力をしなければなりません。実際、一つの地域教会があらゆる種類の人々に対応するのは不可能ですから、特定の地域にいろいろな種類の教会が存在するのは、大いに意義のあることです。個人的に筆者は、自分の教会の隣にバプテスト教会があり、すぐ近くにホーリネス教会があり、通りを隔てたところに改革派の教会があれば良いのにと思っています。若い牧師がドラムをズンドコズンドコと鳴らす教会があり、ゲーテだのリルケだのをこよなく愛する牧師がいてくれたらと願っています。できれば、一つの大きな地域教会が、あたかもたくさんの地域教会があるかのような、多様な活動をするのがもっと好ましいでしょう。



  聖書を読む限り、洗礼の条件はキリストを信じる信仰だけです。ですから、信仰の告白がもっと重要視されるべきです。筆者は現役の売春婦に洗礼を授ける決意をしたことがありました。まだ若い伝道者で、教団から洗礼を授ける資格をもらっていませんでしたので、ちょうど訪ねてきてくださった先輩伝道者にお願いしましたが、筆者は彼女の信仰告白が真実なものであり、その生活には確かに聖霊が彼女の内に住み、力を現して下さっているという確証が見て取れましたので、洗礼を授ける決意をしたのです。彼女の中に聖霊は間違いなく働き始めておられましたので、彼女はそれから少し後、すべての借金、暴力団などの問題も解決してもらって、見事に普通のつつましやかな女性となり、幸いな結婚もし、子どもを育て上げました。彼女のクリスチャン生活にとって非常に重要だったのは、キリストのからだにバプタイズされたという霊的な次元で体験した事実を、地域の教会に参加してキリストにある交わりを保つことによって、具体的に表現することが出来たことです。神の家族に生まれた赤ちゃんは、実に世話の焼ける赤ちゃんでした。でも、家族の中にいたからこそ、兄弟姉妹の手を煩わせながらも、成長することが出来たのです。



  具体的な水のバプテスマは、霊的次元でキリストのからだにバプテタイズされた後、出来るだけ早い時点で行われるのが、聖書の原則だと言えそうです。ただし、先にも触れましたが、例外もあることを知っておかなければなりません。パウロはコリントの信徒たちに洗礼を授けませんでした。異邦人であったコリントの信徒たちの信仰告白を聞いても、一人ひとりの告白を、間違いのない正真正銘の信仰の証拠として、確信をもって受け入れることができなかったからではないかと思われます。彼らの実際の生活の中に、御霊によって生きているという証拠、御霊の実が見られなかったのではないでしょうか。それでパウロは、確証を得られるまで洗礼を授けるのを待っていたのでしょう。



  そうだとすると・・・・・大いにありそうなことですが・・・・・日本人のように異邦文化の中で育った者に洗礼を授ける場合、それ相当の期間を置くという教会の配慮もまた、否定されてはなりません。それは、教会の基準に合うようになるまでではなく、キリストのからだにバプタイズされたことを確認できるまで、待つということです。ただし、そのように告白をそのまま受け入れることがはばかられるような人物でも、教会は彼を交わりの中に入れることを拒んではならないのです。もしも、彼がほんとうにキリストのからだにバプタイズされていたならば、彼はキリストのからだの中で、具体的にキリストの命に触れ、キリストの命にあずかり、聖霊の交わりを楽しむべきなのです。そうすることによって、初めて、彼はクリスチャンとしての正しい成長を遂げることが出来るのです。たとえ霊的次元でキリストのからだにバプタイズされていても、具体的に地域教会に繋がっていなければ、本来の成長を遂げることが出来ないのです。神の家族の中に生まれた赤ちゃんを、追い出すようなことをしてはなりません。ですから、パウロは、コリントの教会の一人ひとり思い出してみて、果たして本当に霊的誕生をしているかどうか分からない場合でも、彼らを追い出すようなことは出来るだけ避けているのです。




      途中休憩・・・・・・・


  またちょっと道草を楽しんで、パウロの洗礼観の教会論的側面について、学んだことをおさらいしてみましょう。


  a.パウロの洗礼観の教会論的側面は、Tコリント12:13の言葉に最もよく表明されています。ただし、日本語の公的使用のための聖書は、どれもあえて間違えたと思われる訳をしていて、正しく意味を汲み取ることができません。正しい訳は「一つの御霊によって、一つのからだにバプタイズされ」です。


  b.ここでパウロが語っているバプテスマは、人間が儀式として授ける「洗礼」ではなく、聖霊が直接執行してくださるバプテスマであり、すべての人を差別なく、キリストのからだである教会にバプタイズして下さること、すなわちどっぷりと浸してくださることです。それは人間の目に見えるこの世界の儀式ではなく、目に見えない霊的次元での現実の出来事、水に浸す洗礼という儀式が象徴する、実体としてのバプテスマです。


  c.このキリストのからだにどっぷりと浸された者は、キリストのからだに満ち満ちている聖霊に、あらゆる方向から取り囲まれるだけではなく、聖霊を飲む者とされました。ですから、聖霊が外側からも内側からも浸透してくるのです。それによって、すべてのクリスチャンは聖霊に満たされ、聖霊に住んでいただくことになり、キリストの命に生かされ、キリストの実を結ぶことが出来るようになるのです。


  d.この、聖霊によってキリストのからだにバプタイズされることなしには、だれも、キリストにつながることもありません。キリストのからだにつながらせ、キリストのからだの一部とするかどうかを判断するのは、牧師や宣教師や教会役員の仕事ではなく、聖霊の主権による選択であり判断です。パウロが本当に大切にしたのは、このバプテスマです。これこそ水のバプテスマが象徴するものであり、霊的実質としてのバプテスマなのです。

 
  e.以上のような教会論的バプテスマの理解は、当然、クリスチャン生活に大きな影響を与えます。教会を軽んじたり無視したりするクリスチャン生活、具体的には地域の教会にきちっと連ならないクリスチャン生活は、本来ありえないし、あってはならないものです。すべてのクリスチャンが、キリストのからだである教会にバプタイズされているという霊的事実は、霊的教会の具体的顕現である地域教会で、具体的教会生活として実際に生かされて行かなければなりません。


  g.地域教会は、実際的に教会に連ならないクリスチャンの存在を許すべきではありません。自分たちが関わるすべての回心者、すべての受洗者をしっかりと自分たちの教会に連なることが出来るように、あらゆる努力をしなければなりません。洗礼は授けておきながら、すなわち、聖霊がキリストのからだにバプタイズしてくださったという霊的事実を認めていながら、別に入会基準などを設けるのはもってのほかです。地域教会は、聖霊がバプタイズしてくださったすべての人を、何の制約も設けずに受け入れるのです。


  h.すべての本物の教会は、ひとつのからだに所属しているのですから、互いにその事実を認め合い、兄弟姉妹として愛し合い、助け合い、協力し合っていくべきです。教会の中に個人主義、利己主義、自己中心主義を持ち込んではなりません。特に昨今は、無制限な資本主義と個人主義が結びついた、利己主義な教会、自己中心の牧師伝道者が増えていることに、警鐘(けいしょう)を鳴らす必要があります。成功して名を上げることよりも、謙遜(けんそん)と自己放棄こそもっともっと大切にされるべきです。



 これらのことを学びながら、関連するいくつかの大切なことも学びました。


  a.イスラエルの人々が、割礼を経て始めて正式にイスラエル人と認められたように、クリスチャンはバプテスマを経て、初めてキリストのからだの一部とされます。ところが、パウロが語っているこのバプテスマと割礼の間には、決定的な違いがあります。それは割礼が人の手によるものであることに対し、バフテスマが人の手なよらない、聖霊の主権によるものだといいことです。パウロがここで語っているバプテスマは、「洗礼」という人の手による儀式ではなく、目に見えない次元で聖霊が行ってくださる、実質、実体としてのバプテスマです。ですから、旧約の割礼が新約の洗礼だというような考えは、パウロのものではありません。


  b.教会は救われた人々が任意に、随意に集まって作り出す団体ではありません。永遠の昔から、世の初めから神が計画し、キリストが建ててくださり、わたしたちが救われる以前から存在していたものです。すべての救われたものは、その人の意思に関わらず、強制的に、自動的に、聖霊によって、ひとつの教会にバプタイゲされ、つなげられているのです。ですから、キリスチャン信仰は個人主義の信仰ではなく、共同体を前提とした信仰です。


  c.教会が新しい信徒に洗礼を授ける場合には、その信徒の信仰告白があれば充分と思われがちですが、異邦人の地においては実際上、もう少しの確認期間が必要とされる場合が多いと考えるべきです。聖霊がキリストのからだにバプタイズしてくださったという霊的亊実が、具体的に毎日の生活の中で実証されなければ、洗礼を控えるということも大いにあり得ます。洗礼を授けるべきかどうかの基準は、教会が定める人為的基準ではなく、聖霊の働きがその人物の中に認められるかどうかによるべきです。

                       つづく








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2010年10月17日

礼典の意義について (4)




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     T.E.2.c. 水のバプテスマ


  では、このキリストへのバプテスマ、あるいはキリストのからだへのバプテスマと、水の中に浸すバプテスマはどのような関係にあるのでしょう。キリストがヨハネのバプテスマを継承し、それを発展させて独自の意味を持たせたことはすでに述べました。初期のキリストの弟子たちは、基本的に、キリストが与えていたバプテスマの理解に止まっていました。ところがパウロが現れ、奥義である教会についての啓示が与えられたとき、バプテスマに、新しく教会論的理解が加えられたと考えるべきでしょう。
  


  パウロは、弟子たちを通してキリストから伝えられたイニシエーションとしてのバプテスマ、あるいは聖めとか洗いとかの意味もあったであろうバプテスマを、彼に与えられた奥義の啓示である、「キリストのからだ」の解き明かしの中で再解釈し、その価値を高めたのです。パウロが受けた奥義としての教会の啓示以来、水のバプテスマは、キリストのからだである教会に加えられる、あるいはその教会に満ち溢れる聖霊の中に浸され飲ませられる、聖霊によって執行される霊的リアリティとしてのバプテスマを、象徴的に、可視的に表現するものとなったのです。



  パウロとって、キリストのからだへのバプテスマは小さな出来事ではありませんでした。それは神学的にもまたクリスチャンの実生活のうえでも、まさに中心的な事柄でした。これが無ければ、キリストにあることも不可能であり、御霊によって生きることも、御霊によって歩くことも、世の罪と悪魔に立ち向かって戦うことも、御霊の実を結ぶことも、さらに聖徒の交わりも、互いに愛し合うことも、助け合うこともあり得なかったのです。キリストのからだへのバプテスマを受け、キリストのみ体につながったゆえに、わたしたちはキリストにつながり、聖霊を飲み、聖霊を受け、聖霊に住んでいただくことができたのです。聖霊に住んでいただいた者たちが寄り集まって、キリストのからだを形成したのではないのです。



  このように聖書を理解すると、わたしたちはあらためて、「浸礼」という訳がバプテスマにふさわしいことに気づきます。もちろんそれは、キリストの死と甦りを象徴するにふさわしいという、バプテスト系の人々の主張を認めるのではありません。むしろ、キリストのからだにどっぷりと浸された、霊的次元でのリアリティとしてのバプテスマを、この日常の世界で人間が象徴として行うバプテスマとしては、「浸礼」がふさわしい訳であると思えるわけです。



     T.E.2.d. モーセにつくバプテスマ


  このキリストへのバプテスマという主題を取り上げて、パウロが語っているところがもう一箇所あります。Tコリント10:1〜6です。ここでパウロは、直接「キリストへのバプテスマ」なる言葉を用いてはいませんが、「キリストへのバプテスマ」について語っているのは明らかです。彼は、イスラエルの人々が雲と海を通ったことを象徴的に解釈し、イスラエルの人々は「モーセにつくバプテスマを受けた」と語り、(原語ではモーセにつくバプテスマではなく、モーセの中にバプタイズされ)彼らが荒野で岩から飲んだ水を聖霊と理解した上で、その岩をキリストであったと言いました。パウロはこの物語全体をクリスチャンのバプテスマの雛形(ひながた)として捉えているのです。パウロが言おうとしているのは、イスラエル人が雲と海を通って救われたことではなく、雲と海を通った後、御霊の食べ物を食べ御霊の飲み物を飲んだということです。これは、御霊が与える食べ物と御霊が与える飲み物ではなく、御霊が食べ物であり御霊が飲み物であったと理解すべきです。



  ですから、このTコリント10:16のパウロの言及は、12:13の言及と非常によく調和するのです。わたしたちクリスチャンは、雲と海を通ってモーセにバプタイズされたイスラエルの人々が、キリストである岩から流れ出る水を飲んだように、キリストにつくバプテスマを御霊によって受け、いま、岩であるキリストからいただく御霊を飲む者とされているのです。すべてのクリスチャンは、この同じ御霊、聖霊によってキリストの十字架のみ業の効力を着せられて、生きるものとなったのです。わたしたちは同じ命に生かされている、有機的な共同体なのです。わたしたちは同じ一つの御霊によって、同じひとつのからだにバプタイズされ、同じ一つの御霊を飲むことによって生かされている、有機的で不可分の共同体であるはずなのです。



  この同じ一つのからだに属し、同じ一つの命をいただいている事実、キリストと一つになっている事実は、たんに、キリストの死と甦りと一つになっていることを意味するだけではありません。それは、キリストの痛みも苦しみも栄光の望みも共にすることであり、(ピリピ1:29、コロサイ1:24) すべてを共にすることなのです。パウロは、日常の現実においては欠点だらけ、間違いと失敗だらけの教会を、キリストにつく者とされている霊的事実のゆえに、「キリスト」と呼ぶことさえ躊躇(ちゅうちょ)しなかったのです。(Tコリント12:12、コロサイ1:24)



  ところで、キリストにバプタイズされるとか、御霊を飲むとか、聖霊の宮となるなどの表現が、みなかなり絵画的な描写であることに気づいておられるでしょうか。キリストを宿すと言っても、御霊が住むと言っても、神が共におられると言っても、神が近づいてくださると言っても、みな可視的な、絵画的表現です。神は霊的な方で、物理的な事象しか見ることができない人間の有限な目では、見ることはできません。聖霊も、キリストも、本来は見ることができない方です。見ることができたキリストは本来のキリストではなく、見えるようになってくださったキリスト、有限の世界に入ってくださった謙卑(けんぴ)のキリストです。



  この見えない神が、ご自分の姿や行為や考えを、物質という限界に閉ざされた人間に理解されるようにお話しするには、どうしても可視的な、絵画的な表現を採らなければならないのです。神があたかも肉体的な目を持ち、耳を持ち、手を持つかのような、擬人化した表現も必要になるのです。従って、聖霊を飲むとか、キリストの霊をやどすとか、すべての可視的表現は、霊的次元で起こっている不可視の出来事であると理解しなければなりません。事実は、聖霊が住んでおられない人々の中にも、聖霊はいてくださり、キリストを受け入れていない人々の近くにも、内にも、キリストはいてくださるのです。わたしたちの神は、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられる」神だからです。(エペソ4:6) しかし、その有様が違うのです。神が住んでくださる、聖霊が伴ってくださるなどの表現は、すべて、神と人間との関係の深さ、親密さを言い表すものであって、決して物理的距離や物理的融合を語っているのではないのです。



     T.E.2.e. バプテスマと割礼


  パウロの教会論的バプテスマの理解を取り扱う中で、どうしても触れておかなければならないもう一つのことは、バプテスマと割礼の比較です。先に取り上げたコロサイ書2:11〜13において、パウロは洗礼を「割礼」と表現しているからです。これは、バプテスマにはイスラエルの人々が必ず受けていた割礼と、共通するところがあるからです。すべての人は、割礼という一つの儀式を通って初めて、正式にイスラエル人と認められたのと同じように、すべての人は、バプテスマを通って初めて神の聖徒となり、神の栄光の奥義であるキリスト、栄光の望みを持つ者とされたのです。(コロサイ1:19〜27)イスラエル人が割礼によって神の民に加えられたように、わたしたちはバプテスマによって、新しい神の民である教会に加えられたのです。



  ところがバプテスマと割礼には、明確な違いもあります。それは割礼が人の手によるものであり、(2:11)肉の割礼(2:13)であるのに対し、バプテスマはキリストにあるものであり、人の手によらないものであり、肉にかかわらず、キリストに属する割礼なのです。(2:11)



  ある神学の流れを汲む人たちは、この節を用いて、旧約の割礼は新約のバプテスマ、すなわち洗礼であると強弁します。そして、旧約の神の民イスラエルは新約の教会であると進み、イスラエル人は幼児のときに割礼を受けて神の民に加えられたように、新約の神の民に加えられるのも、幼児のときの洗礼によるのであると言って、幼児洗礼と滴礼を正当化する珍妙な神学を築き上げ、聖書的には何の根拠も無い「堅信礼」などという、元服式のようなものまで作りあげています。たしかに、旧約のイスラエルと新約の教会の間には、ある種の共通点があり、教会はイスラエルの祝福とミッションを引き継ぐものであり、信仰によってアブラハムの子孫ですが、教会は新約のイスラエルであると主張するのは、聖書の教えの正しい釈義によるものではなく、自分たちの神学を聖書の中に読み込んでいるのです。



  旧約の割礼と新約のバプテスマはまったく次元の異なるものです。すでに語ったことですが、ここでパウロが言うバプテスマが、儀式としての洗礼ではないことに注意しなければなりません。人の手によらないところが強調されていることから明白です。洗礼は明らかに人の手による儀式だからです。パウロが語っているバプテスマは、霊的な次元において、キリストが授けてくださった本物のバプテスマです。この人の手によらないバプテスマは、本質的に、キリストが授けてくださったと言おうが、聖霊が授けてくださったといおうが、神が授けてくださったと言おうが違いはありませんが、ここではキリストに属するものとして語られ、Tコリント12:13では聖霊が授けてくださるものとして語られています。



  ともあれ、パウロはここであたかも個人の救いについて語っているように思われがちですが、あくまでも教会論の中で扱われていることに注意をしなければなりません。(2:10、19)割礼によって、イスラエルという共同体に加えられたように、人の手によらないバプテスマによって、キリストのからだという共同体に加えられたのです。このキリストのからだと呼ばれる共同体は、あるときは神の家族と呼ばれ、あるときは建物と呼ばれ、あるときは神の宮と呼ばれ、あるときはアブラハムの子と呼ばれ、約束による相続人と呼ばれる共同体なのです。



     T.E.2.f. 幼児洗礼について


  先ほど幼児洗礼ついて触れましたので、ここで、もう少しその点を取り扱っておきましょう。実際のところ、滴礼や灌礼を行っている人々の多くは、幼児洗礼も認めています。むしろ、洗礼を受けなければ救われないという誤った意識から発展して、「だから出来るだけ早く洗礼を授けなければならない」ということになったと考えられます。それがまた、少し簡略化して灌礼にしたり、滴礼にしたりすることに繋がったのかもしれません。ともあれ、彼らはクリスチャン家族に生まれた幼児を、特別な祝福の中に入っているものと考え、イスラエルの人々が幼児に割礼をほどこしたように、洗礼をほどこすのです。実際のところは、カトリックの考えを継承しただけのことですが、彼らも一応、聖書的な根拠があると主張します。使徒の働き16章に記されたピリピの獄吏(ごくり)と、その家族の洗礼の記録です。そこには「彼とその家のもの全部がバプテスマを受けた」と記されています。(16:33) 幼児洗礼をほどこす人々は、この「家のもの全部」には幼児も含まれていたに違いないと論じるのです。



  しかし、これは単なる推論にすぎません。獄吏の家族、あるいは獄吏の僕たちの家族の中にさえ、幼児がいたというのは推測であって断定はできないからです。(この当時の「家族」という言葉には、獄吏の僕たちの家族も含まれていた可能性があります)さらに、たとえ幼児がいたとしても、幼児が洗礼を受けたと言い切ることは出来ないのです。聖書が「すべて」、「全部」、あるいは「みな」と言うとき、(原語では同じ)それは必ずしも「一人も残らず」という意味ではないからです。多くの場合は「おしなべて」ということです。それは日本語でも同じです。高校一年生の女の子が、両親に「携帯電話を買って」とせがむとき「友達はみんな持ってるのよ」と言うのと似ています。この場合の「みんな」は、「一人も残らず」の意味ではありません。せいぜい、おしなべて、つまり大多数の者は持っているということです。ですから、ピリピの獄吏の洗礼の記録をもって、幼児洗礼の論拠とするのには無理があるのです。口語訳聖書が、ここをあえて「一人も残らず」と翻訳しているのは、たぶん、幼児洗礼を認めている人たちが翻訳の主導権を持っていたためでしょう。「すべて」という言葉を「一人残らず」の意味に理解するか、「おしなべて」と受けとるかは、前後関係と聖書全体の教えから、注意深く判断しなければならないことです。



     T.E.2.g. 一つのバプテスマ


  ところでパウロは、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです」という言葉を残しています。(エペソ3:5) ここでのバプテスマは、いったい何のことでしょう。「バプテスマは一つ」と言われて、「えっ?」と思う人も多いでしょう。なぜなら、聖書の中にはいろいろなバプテスマがあるからです。すでに取り扱ったものだけでも、バプテスマのヨハネのバプテスマ、キリストが教え授けていたバプテスマ、パウロによって教えられたバプテスマ、その中には儀式としてのバプテスマがあり、霊的次元の聖霊による、あるいはキリストのバプテスマと呼ばれる バプテスマがありました。そのほかにも、ヨハネがキリストについて預言した聖霊のバプテスマがあり、火のバプテスマがありますし(この聖霊のバプテスマと火のバプテスマは、まったく異なった二つのバプテスマです)、キリストが「わたしの飲もうとする杯、わたしの受けようとするバプテスマ」とおっしゃったときの、バプテスマもあります。


 
  ですから、聖書を平面的に読んではならないわけです。パウロがバプテスマは一つと言った前後関係をみると、その様なたくさんの種類のバプテスマをすべて並べて語ったのではなく、「あなた方が受けたバプテスマは一つ」という意味であり、さらに注意深く読むと、そのバプテスマは救いに関わるバプテスマであることも分かります。実質的にパウロは、「あなた方が受けた救いに関わるバプテスマは一つ」と言っている、つまり、あなた方は同じ一つのバプテスマを受けて救われたという意味で語っているわけです。すると、これは、洗礼とか浸礼とか呼ばれる儀式としてのバプテスマか、その儀式としてのバプテスマが象徴している、霊的次元の実体としてのバプテスマということになりますが、パウロは儀式としてのバプテスマを救いの要因とは考えていません。そこまで読んで、もう一度前後関係の中で理解するとさらにはっきりします。パウロが語っている「平和のきずな」、「御霊の一致」、「からだは一つ」、(キリストのからだのこと)「召しがもたらした望みが一つ」、「主は一つ」、「信仰は一つ」、「すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです」という言葉が、ことごとく、儀式でも象徴する行為でもなく、霊的次元での実体であることが明らかです。すると当然、「バプテスマは一つ」と言われたバプテスマも、儀式としてのバプテスマではなく、霊的実体としてのバプテスマであると考えるべきです。するとパウロは、ここでも教会論的に、すべての信じるものを一つのからだにバプタイズした、霊的次元の本物のバプテスマについて語っていることが明らかです。



 T.F.聖書が教えるバプテスマの適用


  新約聖書が教えるバプテスマについて、簡単に学んできました。これらのことはいったい今のわたしたちにどのような意味を持つのでしょう。わたしたちのクリスチャン生活にどう関わるのでしょう。



   T.F.1  教会をどう取り扱うか

 これまでの、個人の救いを中心に据えた福音派の神学では、教会の重要性は隅に押しやられていました。一人ひとりの救いの重要性はいまさら説明するまでもありません。しかし、聖書の教えによると、教会は今までわたしたちが理解してきたものより、遥かに大切です。



     T.F.1.a. すべてのクリスチャンが教会の一部


  教会は単に救われた人々が任意に、随意に作り上げる団体ではありません。教会はキリストがお立てになり、聖霊がお住まいになる、キリストが頭であるキリストのからだです。すべてのクリスチャンは、そのあらゆる相違に関わりなく、このキリストのからだにバプタイズされ、教会の一部となったのです。すべてのクリスチャンが永遠の命を持つことは、いくら強調されても良いのですが、救われた人が、ただちにキリストに繋がることを強調するあまり、すべてのクリスチャンが、キリストのからだである教会にバプタイズされたことを、ないがしろにしてはなりません。キリストのからだにバプタイズされた結果、そのキリストのからだに満ちておられる聖霊を飲む者とされ、聖霊に取り囲まれ、聖霊を宿し、聖霊に満たされて、聖霊によって生きることができるようになったのです。教会にバプタイズされないでは、だれも、キリストに繋がることも、聖霊に満たされることもあり得ないのです。キリストの命をいただくこともなければ、「もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしのうちにあって生きておられる」と言うことも出来ないのです。



  ところで、このように書き進めている筆者は、四方八方から、「だからどうだってんだ」と言われているように感じるのです。それこそ「どうでもいい神学」ではないか。「なんだかんだと言ったって救われるんだし、とにかく救われた人すべてにキリストの命が流れ、聖霊が満ち、神が住んでくださるのだから、やいのやいの言うことはないではないか」 



  おっしゃるとおりです。神の哀れみがある限り、たとえわたしたちの側にどれほどの間違いがあったとしても、信仰によって生かされているのです。しかし、わたしたちの理解が不充分で間違っているために、信仰生活に悪影響を受け、結果として、神が計画してくださった恵と祝福、力と働きを失っているとしたら、それは断然、正されなければなりません。バプテスマの理解が生半可であるために、あるいは誤っているために、わたしたちの教会に対する考えや教会との関わりに、不都合が生じているのです。言い変えるとわたしたちは、本来、神がわたしたちに与えてくださった生き方が、出来ないでいるのです。あるいは気がつかないままでさえいるのです。ですから、これは単なる「神学論議」ではありません。実生活に直接、しかも深く関わることなのです。



  クリスチャン信仰とは、個人主義の信仰ではありません。個人の信仰生活を強調したのは、欧米個人主義の間違った哲学によるものです。救いは確かに個人の信仰によるものです。ところがその個人さえ、真空状態の中に生まれ、純白の中で育ったのではありません。ある固有の文化を持った人間の集まりの中で、つまり、共同体の中に生まれ育ったのです。たとえ個人の意思と言っても、決定的に共同体の影響を受けた個人の意思です。そしてさらに、その個人の救いが共同体の救いに関わっていくのです。個人を見すぎて、共同体の大切さを見ることができないキリスト教は、日本を始め、多くの文化では拒絶されます。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」というパウロの言葉は重要ですが、この言葉も、あくまでも共同体の中の出来事として理解されるべきです。共同体を見逃すと、この言葉を正しく理解することは出来ません。



  クリスチャンが救われたら、個人的にキリストに結びつくのではありません。同時に、教会にバプタイズされるのです。それによって、教会の中に満ち満ちておられるキリストの霊に取り囲まれ、つながり、飲み込み、キリストに住んでいただくのです。教会を離れて、キリストに繋がることはできないのです。ところが現実においては、教会に繋がっていないクリスチャンがたくさんいます。教会がなくても、救われ、聖霊をいただき、クリスチャン生活をしています。そして、それぞれ、結構満足しています。でもそれはその人の自己満足で、神が満足してくださっているわけではなく、納得しておられるわけでもありません。神のご計画は、世の初めから、教会を定め、(エペソ1:4、9)キリストによってこれを建ててくださったのです。(マタイ16:18)そしてキリストはこの教会を愛し、そのために命を捨ててくださったのです。(エペソ5:25)教会は、決してクリスチャン生活の隅っこに押し込められるものでも、忘れられても良いものでもありません。



  これらの事実を認め、教会を大切にし、生活の基盤にすえるのが正しいクリスチャン信仰のあり方です。寝ても教会覚めても教会であるべきです。でも教会生活を軽視し、あるいは無視しているクリスチャンたちは、「わたしは見えない教会、普遍的教会にバプタイズされ、その教会につながっているのだから、教会を大切にしろと言われても、ほとんど意味が無いですよ」とおっしゃることでしょう。それが悲しい現実であり、教会を否定することを「売り」にして伸びている、「クリスチャン団体」さえあるのです。



     T.F.1.b. 見えない教会の姿を見えるように現す


  ここで是非理解してもらわなければならない、信仰の原則があります。それは、霊的次元で起こった出来事、霊的次元でのリアリティは、わたしたちの日常生活の中で、具現化しなければならない、あるいは、具現化しなければならないという原則です。クリスチャン生活は、そしてクリスチャンの成長は、ここに懸かっているのです。霊的次元で起こった事実を、日常生活の中で実現するのがクリスチャン生活であり、どこまで実現していけるかがクリスチャンの成長です。



  言葉であり光である方を受け入れ神の子となったのが、霊的次元で確かにわたしたちに起こったことです。わたしたちはいまや神の子です。神の世継(よつ)ぎです。しかし、わたしたちの日常の生活、この世の現実は、霊的次元で起こったこととは程遠く、神の子と言うよりは、悪魔の子と言ったほうが良いようなところがたくさん残っています。やがて完全にキリストに似る者とされることを望みながら、まいにち悪戦苦闘しています。それがたとえどれほど困難であろうとも、わたしたちは神の子となった霊的事実を、日常の中で具体的に現していこうと努力します。その努力のなかに、聖霊の力が現され、キリストの命が現されるのです。キリストの血潮によって罪を洗われ、きよめられたのは霊的次元の事実です。その事実は、毎日の生活の中で聖い人間に成長していく形で、具体的に現されるはずなのです。キリストと共に甦り、今は聖霊によって生きているのは、わたしたちの霊的次元での事実です。その事実は、具体的に聖霊の力を感じ、聖霊の力に満たされ、聖霊の力によって罪の力に打ち勝ち、キリストの証人として生きる、毎日の生活があってこそ具体的に表現されるのです。



  キリストのからだにバプタイズされ、キリストのからだの一部とされ、キリストのからだに連なる者とされた、霊的次元での出来事も、同じように、この日常の毎日の中で具体的に表現されていかなければなりません。それは互いに愛し合うことであり、助け合うことであり、戒めあうことであり、共に涙を流すことであり、持ち物も分け合うことです。つまり、クリスチャン同士が交わりを保つことです。しっかりと組織され制度も整った教会であろうと、まだまだ流動的で組織と呼べるほどのものもない教会であろうと、キリストのからだにバプタイズされた者はすべて、具体的に教会に加わり実際に教会生活をして、はじめて、キリストのからだにバプタイズされた霊的事実が表現されるのです。その様に表現されてこそ、正しい意味で、キリストの命による有機的共同体、キリストのからだが具現化されるのです。そのようなキリストのからだがあってこそ、一人ひとりのクリスチャンは、はじめて正しい意味でキリストにつながり、キリストの命にあずかるのです。



  「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という、キリストのお与えになった新しい戒めを守るのが、わたしたちの生き方です。しかしわたしたち、すなわちキリストの弟子であるクリスチャンが、互いに交わりを持つ機会を作らず、てんでばらばらに生きていたのでは、その戒めを守ることは不可能です。「互いに愛しあいなさい」というキリストの新しい戒めは、キリストに従う人々の共同体を前提としたものです。実際、聖書の教えの多くは、救われた者たちが具体的に共同体生活をしてこそ、守ることができるものです。たとえ霊的次元においてはキリストのからだに繋がっていても、それが日常の現実の中で、地域教会という場で具現化されなければ、霊的事実が美しい花を開き、すてきな実を結ぶことはありえないのです。



  キリストは、わたしに繋がっていなければ、あなた方はなに一つできないとおっしゃいましたが、正しくキリストに繋がることは、キリストのからだである教会につながって、初めて可能なのです。ふつうわたしたちが普遍的教会と呼ぶ教会は、霊的次元での教会であり、その教会につながっている事実は、具体的に目に見える地域教会に繋がることによってのみ、正しく表現されるからです。正しく表現されていなければ、キリストにつながっている霊的事実は、非常に限られた範囲でしか表現されず、神が教会に意図された目的が達成されないのです。使徒パウロが、キリストのからだにバプタイズされると語ったとき、彼の頭の中にあったキリストのからだは目に見えない霊的次元でのキリストのからだ、すなわち普遍的な教会であったと思われます。ところが、パウロの実際の働きから理解できることは、パウロにとって、普遍的教会と実際に目に見える地域教会との間に、まったく乖離(かいり)が無かったということです。霊的教会に繋がりながら、地域教会に繋がらないなどということは、パウロにとっては想定外の事柄でした。たとえ、本当にわずかな回心者しか起らなかったとしても、彼はかならず、キリストを信じた者たちの地域的交わりを築いていったのです。



  クリスチャンがキリストの御霊に満たされて、生き生きと生きるには、教会生活をすることが欠かせません。クリスチャンとして罪に打ち勝ち、困難を克服して生きるためには、教会生活が不可欠なのです。愛し合い助け合い協力し合って生きるという基本に生きるには、キリストの命がなければならないのです。その命は、正しい形でキリストに繋がっていなければ、豊かに溢れ流れることはないのです。キリストの命は、頭であるキリストから直接受けるのではなく、からだの他の部分、他の肢体を通して受けるのです。わたしたちからだのすべての部分は、同じキリストの命をそのようにして分け合うのです。他の部分、他の肢体を流れてこなかったキリストの命はないのです。だからこそわたしたちは有機体なのです。たとえ足の形をし、手の形をしていても、あるいは確かに耳であり鼻であっても、もしも体につながっていないで、ばらばらのままだったとすると、それは体の一部として機能することはできません。体から養分を受けることも無く、体のほかの部分に貢献することも無く、間もなく死んでしまいます。



  教会を軽視したり否定したりして、実生活で地域教会に繋がっていないクリスチャンは、正しい意味で霊的成長を遂げることができません。その成長は非常に限られたものになるのです。実際の問題として、禁教国や特殊な環境でまったく隔離されでもしない限り、現在の世界で、完全に地域教会から隔離されてしまうことは起きませんので、わずかながらでも成長はするでしょう。たとえば、どこの教会にも行かないけれど、クリスチャンの本を読んでいる、あるいはテレビのクリスチャン番組を観ているといったことでも、非常に細い絆ですが、地域教会に繋がっていることです。教会を否定している団体の地域の交わり、聖書の学びの会に参加しているのも、実質においては、限られた範囲であり、限られた深さではあっても教会なのです。たとえ、牧師がおらず、定期集会がなく、礼拝会もしていなくても、献金もなく、洗礼もなく、聖餐式もなくても、非常に不完全な形ですが、その会は教会として存在しているのです。完全に交わりを絶ったと思われるクリスチャンも、誰かに祈られているのです。



  たしかに目に見える地域教会は、欠点と短所、醜さばかりが目につく代物かもしれません。しかしそれこそが、完全な普遍的教会が、不完全な人間世界のなかに自分を現した姿なのです。それは、教会が不完全なのではなく、人間が不完全なのです。その不完全をあげつらっていては、本当のクリスチャンの生き方ができないのです。本当のクリスチャン生活は愛し合うものです。愛するとは、不完全なものを受け入れることでもあるのです。完全な教会を求めていては失望するだけです。たとえ、完全な教会を見つけても、「あなた」が参加したとたんに不完全になってしまうのです。



  キリストの命、キリストの愛、キリストの力、キリストの励まし、キリストの激励叱咤、キリストの恵、キリストの優しさ、キリストのお叱り、キリストの導き、キリストの教え、その他、キリストのありとあらゆる良いものは、キリストの肢体を通して流れ溢れ、満ちてくるものです。このようなキリストのからだの意味をわきまえない人は、しばしば独りよがりに陥り、あたかも自分だけがキリストに繋がっているきよいものであるかのように勘違(かんちが)いして、人の言うことではなく、キリストのおっしゃることを聞くのだなどと主張して、身勝手なわがままを行い、キリストのからだを傷つけています。キリストに聞くことは、兄弟姉妹に聞くことでもあることさえ分かっていないからです。



  すべてのクリスチャンは、きちっと洗礼を受け、地域教会に連なるべきです。たとえその地域教会が欠点だらけの教会であったとしても、教会に連なることを拒否して孤高のクリスチャン生活をするよりは、よほど良いのです。すべてのクリスチャンは、キリストのからだにバプタイズされている事実を、水のバプテスマによって表現し、キリストのからだの具体的現れである地域教会に、具体的に繋がるのです。そうすることによって初めて、正しい形で聖霊の交わりの中に入り、正しい形でキリストの命をいただき、正しい形でクリスチャンとして生きることが出来るのです。

                      つづく               
















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2010年10月16日

礼典の意義について (3)



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     T.E.1.b. その他の救済論的議論 


  さらにパウロが、救済論的理解を前提に語っていると思えるのはTコリント15:29です。ここでパウロは洗礼そのものについて語ろうとしたのではなく、死者の甦りというまったく他の議論を進める中で、コリントの人々が行っていた「死者のためのバプテスマ」に触れただけです。ただ、コリントの人々が死者のためのバプテスマを行っていたのは、たぶん、死者の救いを願ってのことではないかと想像されるだけで、それ以上のことは言えません。もちろんこの言葉を根拠に、死者のためのバプテスマをパウロが是認していたと言うこともできません。ここにおいてパウロはバプテスマの議論を進めたのではなく、コリントのクリスチャンたちが死者のためのバプテスマを行っているのは、復活を信じているからではないかと言っているだけだからです。



  もう一つ、これも確実なことは言えないのですが、パウロは、洗礼を救済論的に理解していたとも理解できそうな、「洗い」という言葉を回用いています。まずエペソ5:26においては、キリストが「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする」と語っています。この「水の洗い」がはたして洗礼を指しているのかどうか、断定的なことは言えません。文法的には「みことばの洗いと水の洗いによって」とも理解できます。「みことば」がいったい何を意味しているのかという議論もあります。とにかく、確実なことは分からないのですが、大多数の聖書学者たちはこの水の洗いは、洗礼のことを意味しているのだろうと考えています。同様に、「神は・・・・聖霊による、新生と更新との洗いを持ってわたしたちを救ってくださいました」という、テトス3:5の言葉も、翻訳のまずさや厳密な解釈はともかく、洗礼のことを意味しているのだろうと、多くの聖書学者たちは考えています。ただし、これを霊的次元の事実としてのバプテスマと捉えることも可能ですし、さらに他の意味に捉えることも不可能ではありません。言及が断片的であるために、断定は不可能です。



  もしもこれらの多くの聖書学者たちの考えが正しく、上記の二つの引用箇所の「洗い」という言葉が、洗礼を意味していたと理解すると、パウロは、聖書外の洗礼に類似した行事の意味、あるいはヨハネの洗礼にも関係していただろうと思われるその意味を、キリストのみ名による洗礼にも見出していたということでしょう。それは、非キリスト教的な習慣をキリスト教の礼典と習慣あるいは神学に取り入れ、再解釈し、新たな意味を加え、昇華(しょうか)することであり、けっして悪いことではありません。もしもそうだったとするなら、これらの言葉もパウロが救済論的に洗礼を理解していたことの証拠になります。



  洗礼を「洗い」との関係で語っているパウロの言葉が、もう一つあります、使徒21:16においてパウロは、自分の回心のときに語られたアナニヤの言葉を引用して 「バプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい」と語り、あたかも洗礼が罪を洗い流すものであるかのような言い方をしているのです。たぶん、これが洗礼と洗いを結びつけるもっとも強い言及だと想われます。パウロの回心は、教会の歴史の始めの部分であり、まだ、洗礼に対する理解も発展していなかったとはいえ、洗礼が、罪の洗いの意味を持っていたということは明らかです。 



  バプテスマは「洗い清めることを意味する礼典」であり、「洗礼」という訳語がふさわしいと考える人たちは、これらのパウロの言葉を根拠にしています。ただ、「洗い」という概念についてはは、これ以上の論議は進められていませんし、聖書全体からみても、バプテスマの主要な意味であるとは考えられません。むしろ、「洗礼」と訳した初期の日本人クリスチャンたちの意識の中では、バプテスマのヨハネのバプテスマが、悔い改めと罪の赦しにかかわることからの、連想があったのではないかと思われます。罪を洗い流して清めるというピューリタン的なアメリカのキリスト教、あるいはホーリネス的キリスト教の影響も強かったのではないかと考えられます。穢れた罪の生活から、キリストによる新たな生き方に入るという福音的な意味から、バプテスマに付随していたかもしれない「洗い」という概念を、強調したのでしょう。日本のキリスト教は、たとえイギリスから入ってきたものであっても、決定的にピューリタン的、ホーリネス的であったためです。そのキリスト教の受け皿となった日本文化にも、神道の「みそぎ」や「流し雛」、あるいは儒教の高度な道徳的概念があったために、「洗礼」という訳は受け入れやすかったのではないでしょうか。(この、洗礼という訳語の選択に関する筆者の見解は、確実な学びによるものではなく、想像の域を出ません)



  一方、Tコリント6:11でパウロが語った「・・・わたしたちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ・・・・」という言葉は、洗礼にも、霊的次元の出来事としてのバプテスマにも関わるものではなく、キリストの血の効力をもたらす、聖霊のきよめの働きだろうと理解されます。



  また、パウロのものではありませんが、ヘブル書の中に洗礼を思わせる「洗い」という言葉が、「きよめの洗いについての教え」という表現で残されています。(ヘブル6:3) ただこのヘブル書の表現が、同じヘブル書9:10の「種々の洗いに関する」という表現で出てくる「洗い」と同じ意味だとすると、これは明らかに洗礼ではなくなってしまいます。いずれにせよ、新約聖書の洗礼に関する記述からは、「洗い」という概念を否定しきることはできませんが、「洗礼」という訳を最善であると主張するほどの根拠もないことが明らかです。それは同時に、パウロの洗礼理解は、まず、第一に救済論的であったという、広く行き渡っている考え方を弱めることにもなります。



     T.E.1.c. コリントの信徒に洗礼を授けなかった理由


  たとえパウロが洗礼を救済論的に理解していたとしても、彼にとって洗礼は救いに必要な条件ではなく、救いを象徴する儀式に過ぎませんでした。儀式とはそれ自体が実質・実体なのではなく、あくまでも実質・実体を持つものを象徴するに過ぎません。(ルターやカルビンの聖餐式の解釈に反して) パウロは、コリントの人々にはあまり洗礼を授けませんでした。(Tコリント1:14〜17) たぶん、異邦人が多数を占めていたコリント教会の人々の中には、キリストを信じたと言う彼らの告白を、真実なものであると思わせる具体的な生き方、キリストにある聖い生活、御霊によって生きているならば、どこかで必ず現れてくるはずの、御霊によって歩む歩み方、あるいはキリストにバプタイズされたという霊的次元の事実があるならば、必ず結ばれてくるはずの御霊の実を見ることができなかったのでしょう。そのためパウロは、多くのコリントの人々に洗礼を授けることを、よしとしなかったのだと思われます。



  コリント教会全体としてみるならば、彼らは救われてキリストにつながった人々の共同体であると、確信を持てたとしても、個人個人を取り上げると、まだ確信を持てなかったのかもしれません。とにかく彼は、コリントのクリスチャンたちの間では、ごくわずかの人々にしかバプテスマを授けていないのです。もしもパウロが、バプテスマは人の救いに不可欠な要素だと考えていたならば、「キリストがわたしをお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を述べ伝えさせるためです」と、キリストの宣教の大命令のお言葉に反するとさえ受け取られそうな、言い方はしなかったはずです。パウロにとっては救われるという霊的事実、目に見えない次元でのキリストによるバプテスマが、自分の手で行う儀式としてのバプテスマの先行条件だったのです。




 途中休憩・・・・・


  次の項に行く前に、ここまで述べてきたことを簡単にまとめて見ましょう。

  a.まず、この学びを始めるに当たっての前提を定めて置きました。それは徹頭(てっとう)徹尾(てつび)聖書に基づくことです。多くの伝統的教会が行ってきた思索的思弁的神学ではなく、単純で素朴な、常識的な聖書の読み方で聖書を理解することです。


  b.バプテスマによく似た習慣は、バプテスマのヨハネの出現以前から、ユダヤ教やミトラ教を始め、周辺のさまざまな宗教の中で行われていました。それらには罪や汚れをきよめるとか、呪いや悪運を洗い流すなどの意味が込められ、新しい人生を歩みだす決意の表明として行われていました。福音書の記録からも、当時の人々がすでにバプテスマという習慣に馴染んでいたことが伺われます。


  c.バプテスマのヨハネは、人々に罪の悔い改めを迫る強烈なメッセージを携えて現れ、メッセージを受け入れた人々、すなわち悔い改めた人々に、その悔い改めの表現として、バプテスマを授けていました。彼は、以前から周辺で行われていたバプテスマに類似した儀式に、自分の強調点である罪の悔い改めの意味を加えて、悔い改めの表現、新しい生き方をする決意の表明として独特の息吹を与え、これをバプテスマとして授けていたのです。


  d.キリストが授けておられたバプテスマは、基本的にヨハネのバプテスマと同じだったと思われます。悔い改めという意味も、キリストのメッセージと合致するものでした。しかしキリストのバプテスマは、キリストに従うと決意した者の、意思表示の意味が込められていました。キリストが昇天直前にお与えになった宣教の大命令は、世界中にキリストの弟子を作ることでしたが、その弟子作りの過程として、バプテスマを授けることが含まれていますので、バプテスマは常に宣教に伴うべきものであると理解できます。


  e.初期の弟子たちは、基本的にキリストの教えを引き継いでいました。それは宣教の重要な一部分と考えられ、当初は一人の人間の罪の悔い改めの表現、また、キリストに従う意思の表明として行われていましたが、だんだん、キリストの弟子の共同体に加わるという意味も強くなり、弟子の側からすると、共同体に受け入れる認証の意味も含むようになっていったと、読み取ることができます。つまり、救済論的な意味だけだったところから、教会論的な意味への進展が見られます。


  f.バプテスマに関するパウロの基本的理解は、バプテスマのヨハネからキリスト、そして弟子たちの教えを継承するものでした。従って当然、罪の悔い改め、キリストに従う決意の表明、弟子たちの共同体に加わることなどが含まれていました。



  パウロによって、クリスチャン信仰の理解はあらゆる分野において深められましたが、洗礼においても同じでした。当初こそ、弟子たちから継承(けいしょう)された理解を保持するだけだったとしても、やがて啓示によって奥義を教えられるに至り、つまり、そのときまで知らされていなかった事柄を明らかにしてもらうことによって、キリストを信じた者の共同体である教会を、あらゆる意味で非常に重要な位置に置きました。(エペソ3:3〜6) このときにいたってバプテスマは、たんなる救済論的な理解ではなく、新しく啓示された重要な奥義である教会に関連するものとして、教会論的に説かれるようになったのです。



  以上の事柄を学んできましたが、そこで取り扱ったいくつかの大切な点を上げておきましょう。


  a.救いを強調するあまり、「制度的な教会」を嫌い、洗礼を単なる儀式と判断して軽んじる人々がいますが、洗礼は救いに関わるものであると同時に、教会に関わるものであり、非常に重要です、これを軽視することはキリストの命令に反し、初代の弟子たちの習慣に反し、奥義の啓示によって示されたパウロの教えにも反する、重大な間違いです。


  b.バプテスマを「洗礼」と訳したい人々がいます。彼らは、バプテスマが「洗   う」とか「きよめる」とかの意味を持つと主張して、洗礼という言葉を選びます。ところが、聖書の素直な学びによると、バプテスマには「洗う」とか「きよめる」とかの意味は、まったくないとは言えないまでも、洗礼という言葉に固執するほど強くありません。


  c.バプテスマを「浸礼」と訳したい人々もいます。彼らがバプテスマという言葉の意味は「どっぷりと浸す」ことだから、浸礼がふさわしいと言うのは正しいと認めても、聖書のバプテスマは、キリストの死と甦りにあずかることを意味しているのだから、死すなわち葬りと、甦りを連想させる浸礼がふさわしいと主張するには、無理があります。ローマ書6:3〜6とコロサイ書2:11〜14を用いて、洗礼は死と甦りを象徴するとは言えないからです。パウロが語っているのは、バプテスマがキリストの死と甦りにあずからせることではなく、バプテスマはキリストの中に浸されることであるから、キリストの死と甦りに浸されることでもあるということです。ですから、「浸礼」という訳語に固執する根拠は薄いのです。


  d.儀式としてのバプテスマそのものに、何らかの力があると言おうとする人たちもいますが、聖書は、儀式としてのバプテスマにどのような実質的力も認めていないことが明らかです。洗礼には人を救う力も、きよめる力も、洗う力も、殺す力も、甦らせる力もありません。そのような力は、あくまでも、霊的次元で行われた本物のバプテスマにあるのです。人の手によらないキリストのプテスマ、肉体的感覚、五感では感じることができない、霊的次元で行われた現実の出来事であるバプテスマにこそ力があるのです。わたしたちが普通洗礼とか浸礼とか呼んでいる儀式は、霊的次元で行われた不可視の出来事を、人の手で可視的に象徴的に表現する儀式であり、礼典なのです。洗礼は実体ではなく、実体を象徴する行為に過ぎません。



    T.E.2. 教会論的理解


  パウロがエペソの弟子たちに、ヨハネの名による洗礼で満足することなく、キリストの名による洗礼を勧め、実際、キリストの名による洗礼を授けたのには、(使徒19:1〜7)単に、ヨハネからキリストに乗り換えるだけではなく、もっと深い理由、霊的意味があったからです。当然のことながらキリストの名による洗礼には、ヨハネの名による洗礼にはない、キリストの死と甦りにつながるという救済論的意味がありました。ところがパウロにとってはそれだけで止まらず、キリストのからだにつながるという教会論的意味を持つものだったのです。



     T.E.2.a. Tコリント12:13の理解

  洗礼の教会論的意義については、すでにいろいろなところで少なからず触れてきましたが、改めて、掘り下げてみたいと思います。それには、Tコリント12:13の学びから始めるのが良いと思います。そこには次のように記されています。



  「わたしたちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」



  この言葉は、救済論的理解を第一としてバプテスマを取り扱うわたしたちの間では、あまり注目されたことはありません。ところが、この言葉こそ非常に重要な意味を持つ、まさにパウロのバプテスマ論の中心におかれるべきものだと筆者は考えるのです。



  たしかに救済論的にバプテスマを理解する多くの教会も、この部分をある程度教会論的に捉えていることは事実です。彼らはこの言葉をとって、バプテスマとは信じた者を正式に教会員として認証し、教会に受け入る儀式であるという考え方を正当化し、それにそった教会制度を作り上げました。洗礼を受けた者だけを正式の会員として認め、選挙を始め、教会の管理や政治に参加することが出来るようにして、定期的な献金や活動の義務も課してきたのです。しかし、自由主義、個人主義の強風が、すべての権威主義、制度、組織に逆風となってきた昨今、伝統的教会もこれに押し流されて、その権威も、制度も、儀式もすっかり軽んじられるようになりました。そのために今、新しい会員を教会に迎え入れる儀式としての洗礼を、まったく無視する人たちが多くなっています。これを厳格に維持しようとする伝統的教会もまだたくさんありますが、年々その力を失いつつあります。



  洗礼を救済論的に捉え、教会論的な理解を後回しにする考え方は広く受け入れられて、ほとんどの教会を被っています。その傾向は、特に日本で強いのではないかと思わせる事実があります。それはこのTコリント12:13の翻訳にも現れています。強調のためにもう一度、引用しておきます。



  「わたしたちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」



  この引用は新改訳聖書からですが、現在流通しているほかの二つの公用聖書、口語訳でも新共同訳でも基本的に同じ翻訳で、バプテスマと呼ばれる儀式を受けることによって、人は教会に受け入れられると解釈できます。もちろん、この訳によると、バプテスマは御霊によるものであって、人間や教会によるものではありません。先に扱ったコロサイ書2:11〜14で説明した、人の手によらないバプテスマにつながるものです。ただしこの程度のことなら、少々無理をすれば完全に無視したり、つじつまが合うように説明したりして、教会の儀式だと言いくるめることができるのが、いわゆる「神学」というものです。一般世界で、実質のない空論を「神学的議論」と言うことがありますが、理由がないことではありません。



  実際、伝統的教会のほとんどは、洗礼を教会入会のために必要な手続きとして取り扱ってきました。ちなみに、カトリック教会の翻訳の中で最も新しい「フランシスコ会聖書研究所」による訳が、手元にありますので引用してみます。



  「実に、わたしたちは、ユダヤ人であれギリシヤ人であれ、奴隷であれ自由人であれ、洗礼を受けてみな一つの『霊』によって一つの体に組み入れられ、また、皆一つの『霊』を飲ませてもらったのです」



  この訳によると、バプテスマではなく、洗礼となっていますから、読む人は、まず間違いなく教会がほどこす洗礼と理解するでしょう。さらに、本来、「御霊がバプタイズする」ことになっていたはずですが、「御霊」の位置が後方にずらされ、御霊はバプテスマに関わることがない訳になっています。洗礼は教会が授け、その洗礼を受けた者を御霊が教会に組み入れると読めるのです。ですから、プロテスタントの訳よりももっと、組織としての教会が授ける制度としての洗礼が強調され、その洗礼を授ける教会の権威が強化されている訳になっています。



  ただ、これらの日本語訳はみな原語の意味を正しく伝えていないことを、はっきりさせておかなければなりません。すべて、わざわざ意図的に間違った翻訳をしている、つまり、自分たちの神学や伝統に合うように、聖書の意味を曲げて翻訳しているとしか考えられないのです。中でも、カトリックの訳はひどい訳です。そこで原語の意味が明らかになるように、あえて翻訳しなおしてみましょう。全体を直す必要はありません、肝心なのは、「一つのからだになるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」ではなく、「一つの御霊によって、一つのからだにバプタイズされ」とされるべきところだけです。もちろん、「洗礼を受けてみな一つの「霊」によって一つの体に組み入れられ」でもありません。「一つの御霊によって、一つのからだにバプタイズされ」が正しい訳です。ちなみに、いまわたしの手元にある5つの英語の聖書は、すべてそのように訳されています。



  「一つの体になるように」、「ひとつのからだになるために」、「一つのからだになることを目的とした」、バプテスマという儀式を受けたのではないのです。日本語では洗礼とか浸礼とか訳されている、秘蹟や礼典にあずかったから、一つのからだになったのではないのです。すべての人は「一つのからだになるように」バプテスマを受けたのではなく、「一つのからだにバプタイズされた」のです。一つの体に、一つの体の中に、あたかも深い水の中に沈められるように、バプタイズされたのです。どっぷりと浸けられ、ひたされ、被い尽くされ、埋め尽くされたのです。



  これはまた、人間が与える「儀式としてのバプテスマ」ではなく、「一つの御霊によって」と言われているように、御霊が直接授けてくださる実際のバプテスマ、実体としてのバプテスマです。聖霊が与えてくださるバプテスマは、実体を象徴するバプテスマではなく、実体そのもの、霊的事実そのものなのです。その霊的事実は、すべての人間を差別無く、キリストのからだである教会にどっぷりと浸け、ひたし、被いつくし、埋め尽くすのです。肉体を持った人間を水の中に沈める儀式ではなく、すべての信じる者をキリストのみからだに埋め尽くす、霊的現実です。これ以上現実的なことはありえないほど現実的でありながら、目に見えず、体に触れず、音も匂いもせず、三次元の感覚では決して捉えることができない、霊的世界の出来ごとです。これこそが、ここでパウロが語っているバプテスマです。教会会議だとか、牧師会議だとかが協議して決定し、牧師や宣教師といった人々によって授けられるバプテスマではなく、聖霊が誰にも相談することなく、まったく勝手に、自由に、独断で、ご自分の権威によって執行してくださるバプテスマです。



  聖霊は人間のように差別を持ち込みません。ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、すなわちすべての人のあらゆる違いを超えて、信じる者を分け隔てなくバプタイズしてくださるのです。バプタイズされた者は、一つのからだに浸され、つけられ、埋められ、被い尽くされその体の一部となるのです。一つの体とは、キリストのからだである教会のことですから、バプタイズされた者は教会の一部分とされたという意味です。バプタイズされた者は、救われたのでもなく、罪を赦されたのでもなく、洗われたのでもなく、キリストのからだに加えられたのです。



  もう一度意味を明らかにしておきましょう。バプタイズという行為、どっぷりと浸すという行為をするのは聖霊です。教会ではありません。牧師でも、宣教師でも、役員会でもありません。また、キリストでも父なる神でもありません。聖霊がバプタイズという働きをしてくださるのです。誰をバプタイズするのかというと、すべての信じるものであって、あらゆる人間的な差別は無視されます。何の中にバプタイズするのかというと、ひとつのからだ、キリストのからだである教会です。



  このキリストのからだにバプタイズされた者は、すべて、一つの御霊すなわち同じ聖霊を飲む者とされたのです。キリストのからだにどっぷりと浸された者は、みな聖霊を飲むとは、どういう意味でしょう。



  パウロによると、キリストのからだには「いっさいのものをいっさいのものによって満たすかたが満ちておられる」のです。(エペソ1:23) このいっさいのものをいっさいによって満たす方とは、三位一体のうちのどの方か、厳密には不明です。一般に父なる神と理解されていますが、聖霊と考えても、キリストご自身と考えても同じことです。聖霊は神の霊であり、キリストの霊だからです。ここで、パウロはそのようことには頓着せずに、教会には神が宿り、聖霊が宿り、キリストの霊が満ちておられるという、霊的事実を語ったのでしょう。



  このいっさいのものをいっさいのものによって満たす方が満ちている教会、キリストのからだにわたしたちはバプタイズされたのです。どっぷりと浸けられたのです。パウロがこの箇所を書いたとき、海難事故にあって水の中に投げ込まれたときのこと、とくに一昼夜海上を漂った体験を思い出していたのではないかと想像します。水の中に落ち込んで、四方八方すべて水に取り囲まれ、包まれ、覆われただけでなく、あわてて口を開けたとたんにその水が口の中に流れ込み、いやおうなしに飲むことにもなったのです。水の中につけられ、外側から浸されるだけではなく、口の中から入り込んだ水が、内側からも浸透してくるのです。それでパウロは、「一つの御霊によって、一つのからだにバプタイズされ、ひとつの御霊を飲むものとされた」と、かなり描写的な記述をしたのではないでしょうか。その描写によって、キリストを信じることが、どれほど密接にキリストとの関係に入ることなのか、言いたかったのです。



  救われることによって、人がキリストとの密接な関係に入る事実は、多くの神学者によって説かれ、ほとんどの教会が教えています。ところが、パウロの記述を見ると、救われた者は直ちに直接キリストにつながるのではなく、同時に、キリストのからだである教会にバプタイズされることによって、キリストにつながるのです。これは個人主義的な感覚のクリスチャン信仰とは異なっています。個人主義的信仰の捉え方では、あくまでも、信じた個人が、まず直接キリストとの関係に入るのです。キリストの霊、聖霊、あるいは神の霊が信じる人の内に入り、宿り、住んでくださるのです。そしてキリストを信じ、キリストの霊を宿した者たちが任意に集まり、キリストを信じる者の共同体を形成するのです。その共同体を教会と呼ぶわけです。



  パウロはあくまでも教会論的であり、「キリスト・イエスの中にバプテスマを受けたわたしたちは、みな、その死の中にバプテスマを受けた」(ローマ6:3)と語るだけではなく、救いを受けた者はすべて、分け隔てなく、聖霊ご自身によって、キリストのからだにバプタイズされることによって、キリストの死を自分に適用していただき、(Tコリント12:13) キリストのからだに満ち満ちているキリストの霊、聖霊、あるいは神の霊に満たされる者となると教えているのです。(コロサイ2:9〜12)



  信徒が聖霊を内に宿し、神殿と呼ばれ神の宮と呼ばれるのは、(エペソ2:22、Tコリント3:17)あくまでもこのキリストのからだと呼ばれる共同体に密接に連なり、そこに満ち満ちている神の霊を飲み、宿すことになるからなのです。そのうちに満ち満ちておられた方に包まれ、飲み込み、外側からも内側からも浸され、浸透され、キリストと密接につながる者となったのです。それは命をいただくつながり方、有機的なつながりです。キリストの霊がまず一人ひとりの中に住んでくださり、その一人ひとりが集まってキリストのからだを形成するのではないのです。キリストのからだがまずあって、その中にバプタイズされるのです。パウロは、救済論さえ教会論の中で語っているのです。権威主義的カトリックの言う意味とは異なりますが、救いは教会の中にあるのです。キリストの贖いのみ業の効力は、キリストのからだである教会を離れて教会とは関わり無く、聖霊が働いて適用してくださるのではなく、教会にバプタイズしてくださることによって、教会の中で、教会の中に満ちておられる聖霊が、キリストの贖いのみ業を適用してくださるのです。



     T.E.2.b. キリストのからだへのバプテスマと、キリストへのバプテスマ


  キリストのからだにバプタイズされることによって、キリストにつながるものとなるという教えをあまりにも強調しすぎると、反論が出てくることが予測されます。なぜなら、すでに触れたことですが、わたしたちはキリストのからだだけではなく、キリストにもバプタイズされているからです。(ローマ6:3)ですから、なにもキリストのからだにバプタイズされたという点を強調しなくても、キリストにバプタイズされたことをはっきりさせれば、それで済むことではないかと言われます。わたしたちはキリストを信じたときに、キリストにバプタイズされており、キリストにつながるものとなりました。それで、キリストの命はわたしたちの中に流れ込み、救いが立派に実現しているのだから、それで充分ではないかというわけです。



  たしかに、すべてのクリスチャンはキリストのからだだけではなく、キリストにバプタイズされています。ところがパウロにとって、キリストのからだにバプタイズされることとキリストにバプタイズされることは、二つの異なった出来事ではなく一つの出来事なのです。切り離すことが出来ない二つの出来事ではなく、一つの出来事の二つの面なのです。これを別々に考えてはならないのです。



  Tコリント12:13においてパウロは「キリストのからだ」という言葉を用いて、教会を表現しています。ところが直前の12節を読むと、教会は「からだ」とも「キリスト」とも表現されているのです。パウロは教会を、「キリストのからだ」と呼ぶだけではなく、「キリスト」とも言い切っているのです。これはとても大胆な、また、誤解を生みやすい言葉ですが、パウロは論点を強調するためか、あえて意図的に用いているのです。そして教会を「キリスト」と言うのは、実はパウロの発想によるものではなく、キリストご自身に源があると思われます。



  まだ回心前のパウロ、すなわちサウロは、教会に対する激しい敵愾心(てきがいしん)で迫害を続け、ダマスコまで足を伸ばそうとしました。その途上でキリストが現れたことによって、彼はまさに劇的な回心をするのですが、そのとき、キリストは「なぜわたしを迫害するのか」と語りかけてくださいました。サウロはキリストを迫害したことはありません。彼が迫害していたのは教会だったのです。しかしキリストはここで、ご自分と教会を同一視して、「なぜわたしを迫害するのか」とおっしゃったのです。この強烈な体験が、後のパウロの信仰理解、理念、使命観などに大きな影響を与えたことは想像に難くありませんが、教会をキリストと同一視して「キリスト」と呼んではばからないのも、ここから来たのだと思われます。



  このような用法は一度や二度ではありません。パウロは、「キリストの苦しみの欠けたところを、自分のからだをもって満たしている」と語っていますが、(コロサイ1:24) この場合も、同じです。足りなかったのはキリストの苦しみではなく、教会の苦しみです。「キリストを信じる信仰だけではなく、キリストの苦しみをたまわった」と語った場合にも、(ピリピ1:29)同じ意味合いを汲み取ることが出来ます。Tコリント6:15では、「キリストのからだ」という言葉が二度もくり返されていますが、原語はともに「キリスト」です。これと同じことをパウロはローマ6:3においても行っていると考えることが出来ます。キリストにバプタイズされるとは、キリストのからだにバプタイズされることでもあるのです。パウロはその二面性を背後に含ませて語ったと思われるのです。ただローマ6:3の場合、「キリストの死にバプタイズされた」と後に続く論旨から、「キリストのからだ」という表現を用いることが出来なかったのでしょう。



  ですからパウロにとって、「キリストにバプタイズされる」ことは「キリストのからだにバプタイズされる」ことであり、「キリストのからだにバプタイズされる」ことは「キリストにバプタイズされる」ことだったのです。たとえまた、パウロが「キリストにバプタイズされた」と語ったとき、「キリストのからだにバプタイズされた」という意味を含んでいなかったとしても、筆者が言おうとしている論点は少しも変わりません。キリストにバプタイズされることと、キリストのからだにバプタイズされることが、別々の出来事ではないからです。キリストのからだにバプタイズされることなくしてキリストにバプタイズされることはなく、キリストにバプタイズされることなくキリストのからだにバプタイズされることはないのです。教会に連なることをないがしろにして、正しくキリストに連なることはあり得なく、キリストに繋がることなしに、教会に繋がることも本来あり得ないのです。これらを切り離して論じることは出来ないのです。



  「キリストにつくバプテスマ」という日本語の表現には、イニシエーションとしてのバプテスマ、キリストの弟子となるという象徴的意味も含まれていることでしょう。しかし、Tコリント12:13やローマ6:3でパウロが大切にしたのは、人の手によって授けられる象徴としてのバプテスマではなく、実質的にキリストにつながる本物のバプテスマ、聖霊によって与えられる霊的リアリティとしてのバプテスマだったに違いありません。そのバプテスマが無ければ、キリストにつながることもありえない、キリストの死にあずかることも、キリストの復活のいのちにあずかることもできないものでした。いまわたしたちがキリストの命に生かされているのは、このバプテスマによってキリストにつなげられたからです。単に、つなげられたとか加えられたとかいう言葉が、あまりにも軽々しく、キリストとの霊的つながり、霊的一致を充分に表現しきれないために、バプテスマという言葉を用い、きわめて可視的な表現をしたのでしょう。

                        つづく 








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2010年10月15日

礼典の意義について (2)



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    T.B.3. 洗礼の時期


  バプテスマのヨハネの洗礼は、悔い改めを象徴する洗礼であり、自分の罪を自覚した上で、その罪を悔いる心と、もうこれからは罪に満ちた人生を続けたくないという願い、新しい人生を始めるのだという決意を表明するものでした。したがってそれは、ある程度の自己意識をもち、考えることのできる年齢であったに違いありません。少なくても、3歳や4歳の子どもにその様なことが理解できたとは、考えられません。つまり、幼児洗礼ではなかったのです。



  またヨハネの場合、洗礼を受けようとした人々がみなユダヤ人であったために、彼らの宗教的背景から、ヨハネが語る罪の悔い改めのメッセージを、直ちに理解できたと考えて間違いないでしょう。それは、何ヶ月も何年も思い悩んだ結果ではなく、さまざまな学びをした結論でもなく、「思い立ったが吉日」、「善は急げ」の決断であり、ヨハネからすると「鉄は熱いうちに打て」の洗礼だったと思われます。とうぜん、悔い改めの実を結んでから、つまりひとかどの立派な人間として認められるようになってから、それを公にする認証式のようなものではありませんでした。このようなヨハネの洗礼の意味や様式あるいは時期などは、ヨハネの洗礼をモデルとしたと思われるキリストの洗礼にも、引き継がれて行ったと考えられます。



   T.C. キリストがお授けになり、授けるように命令された洗礼


  キリストもまた、ご自分に従って来ようとする人々、あるいはご自分の教えを受け入れた人々に、洗礼を授けておられます。(ヨハネ3:22、26)ただしキリストが実際にお授けになったのではなく、弟子たちが授けていたと聖書は記録しています。(ヨハネ4:1)キリストの洗礼は、代理者によって授けられても有効だったことが分かります。もちろん、キリストの最初の弟子たちは、キリスト本人から洗礼を受けたのでしょう。すると、以前にヨハネの弟子として洗礼を受けていたと思われる、ペテロやアンデレを始めとする多くの人々は、2回洗礼を受けたと考えてもよいでしょう。キリストが授けておられた洗礼についての人々の理解は、その当時はまだ確立されていなかったと考えるのが妥当であり、ヨハネの洗礼に対するものと大差はなかったことでしょう。キリストのメッセージも悔い改めを強く迫るものであり、ヨハネのメッセージと合致していました。ただ、ヨハネの洗礼はヨハネに従う洗礼、キリストの洗礼はキリストに従う洗礼というくらいの理解はできていたと思われます。(ヨハネ4:1)あるいはキリストの教えを受け入れ、新しい生き方をはじめる意思の表明であるという程度には、理解されていたかもしれません。ともあれキリストの洗礼は、まだヨハネが洗礼を授けていたときから、すでに始められていたのです。



  洗礼について、キリストはこれといった教えを残していません。ただ、昇天直前の遺言のような言葉、すなわち、「弟子を作りなさい」という宣教の大命令の中で、(マタイ28:19〜20) その弟子作りのプロセスのひとつとして、バプテスマをほどこすことが命じられています。したがって洗礼は、キリストの弟子となる印、イニシエーションの意味が強かったことが、ここにいたって明白になります。原語によると、この宣教の大命令には命令形の動詞は一つしかありません。あとの三つの動詞、すなわち、「出て行って」、「バプテスマを授け」、「教え」は本来分詞形であって、弟子とする目的のために通らなければならない、プロセスと理解されるべきです。つまり、「出て行き、バプテスマを授け、教えることによって弟子を作りなさい」という意味です。このように、洗礼はキリストの弟子になる意思表示、公の告白であったことが明らかです。



  また大命令に関係して、「信じてバプテスマを受ける者は救われます」というイエス様のお言葉もあります。(マルコ16:16) 極端なグループの中には、救われるためにはバプテスマを受けなければならないと主張する人たちがいます。彼らはこのキリストのお言葉や、ペンテコステの日のペテロの説教の中の、「悔い改めなさい。そして、それぞれの罪を許していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」、あるいは「あなたがたを救うバプテスマ」というペテロの言葉を、(Tペテロ3:21)自分たちの主張の根拠にします。しかしそのような主張は、聖書の間違った読み方に基づくものです。まず聖書は、一部分だけを取り上げて解釈してはなりません。バプテスマについて理解しようとするならば、それに関係するあらゆる教えを比較しながら、調和の取れた解釈をしなければなりません。バプテスマが救いの必須条件だと主張するには、救いの条件という主題で聖書全体を読み直して、それが、調和の取れた理解だと断言できなければなりません。一節や二節、一箇所や二箇所の文法的釈義(しゃくぎ)や、原語の意味などから結論付けるのは危険なのです。



  特に新約聖書は古典的ギリシヤ語ではなく、コイネーと呼ばれる市井(しせい)の話し言葉、日常会話の言葉で書かれていていることに注意しなければなりません。用いられている単語の字義を厳密に解釈し、使われている表現を厳格な文法的解釈にそってだけ理解しようとするのは、たとえ相手が古典文学であっても慎まなければなりません。本当に厳密に言うならば、言葉というものは同じ人が同じ単語を使っても、状況によって意味合いは微妙に異なり、用いる人が変わればさらに異なり、条件や文脈の違いによっていよいよ変化するだけではなく、書かれた時代、あるいはその文章の主題や形式によっても著しく変化するからです。ましてや新約聖書は、その変化が非常に激しい日常会話の言葉で書かれている、とても幅の広い書物です。書かれたときの事情や背景によって、いろいろな表現方法や言葉が用いられています。今、そのような条件を無視して平面的に読んでしまうと、まったく矛盾していると思える表現や教えさえ出てきます。ですから、常識をもって広く読むことが大切なのです。



  簡単に説明してみましょう。父親が息子を厳しくしかりつけて叫びました。「こら! 寝るな!! 絶対に寝るな!!!」 でも次の日には、その同じ父親が同じ息子にむかって、優しく語りかけました。「さあ、もう寝ろ。早く寝ろ。」 この父親の態度や言葉に矛盾があるのでしょうか。まったくありません。「寝るな!」と言ったのは、冬山で遭難して、雪穴の中で凍えていたときのことです。寝ると死んでしまうのです。「早く寝ろ」と言ったのは、遭難から救出されて病院に収容され、まだ興奮して話しかけようとする息子に言ったのです。聖書は40人ほどの著者が、長い歴史の中で、さまざまな条件と背景の中で書いたものです。新約聖書でさえ、それぞれ異なった状況の中で、異なった必要の中にいたクリスチャンたちに向けて、異なった人々によって書かれたのです、たとえ、同じ単語が使われ、同じような表現が用いられていたとしても、まったく違った意味であったり、まったく反対のことが言われながら矛盾しなかったりすることが、そこここにあるのです。要するに、先入観を捨てて、ごく普通の常識を持って読むと解決する場合が多いのです。



  次に、似たような表現あるいは同じ表現が用いられている箇所を、比較してみることも必要です。聖書は、バプテスマのヨハネの洗礼に関してもペテロの説教と同じ表現を用いて、あたかも、ヨハネが授けていたバプテスマが、罪を赦すものであるかのような言い方をしていますが、(マルコ1:4、ルカ3:3)さすがの極端な人々も、バプテスマのヨハネのバプテスマが、罪の赦しをもたらすバプテスマだとは考えていません。それは罪の赦しに必要な悔い改めを象徴し、悔い改めを表現したに過ぎないと正しく解釈しているのです。このような例は他にもたくさんあります。自分たちの主義主張のために、無理な釈義(しゃくぎ)と解釈をしてはいけないのです。ひとつひとつの言葉の字義の解釈、あるいは表現の厳密な文法的解釈も大変重要です。しかし、数箇所の理解で結論付けずに、広く大きな捉え方をすることがさらに肝要です。



  キリストが残された、洗礼に関する直接の教えは非常に少ないのですが、それでも、いくつかのことは明白です。まず洗礼は、キリストの弟子となるための一つの条件でした。またその条件は、キリストの在世当時も、キリストが天にお帰りになった後からも変わらず、世界中どこにおいても、どのような民族に対しても同じであったことです。さらに、洗礼を授けることが宣教の大命令から切り離すことができない、大命令の一部としての命令であったことから、宣教が続けられる限り洗礼も続けられるべきものです。これがキリストの命令であり、まさに遺言とも言えるお言葉の中に含まれている事実から、洗礼は非常に大切なものであり、決して軽視したり、ないがしろにしたりしてはならないものだと分かります。それはペンテコステの日のペテロの説教でも、確認されています。残念ながら、救いを大切にしている人たちの中には、洗礼を無視するグループもあります。洗礼は受けなくても救われるのだから、洗礼は不要だと考えるのです。なるほど、洗礼を受けなくても救いは可能でしょう。ただし、素直に聖書を読むかぎり、洗礼を無視するのはキリストの命令を無視することですから、不従順のそしりを免れません。また、キリストの命令である以上、たとえ私たちには理解できなかったとしても、意味のない命令はないはずですから、洗礼を無視するのは、重要な意味を失うことであると気づかなければなりません。洗礼は救いに関わるだけではないのです。



  キリストが残された洗礼に関する教えの少なさは、キリストが洗礼を軽視したからではなく、むしろそれが、キリストの在世当時の弟子たちにはまだ隠されていた「奥義」であって、とても理解できなかったからだと判断されます。洗礼は、後になってパウロを始めとした使徒たちに啓示された、奥義に関わることだからです。聖書がいう奥義とは、「以前には隠されていたけれど、時がきて新たに明らかにされた事柄」という意味で、いわゆる密教的な秘儀(ひぎ)のことではありません。洗礼は新約時代の最も重要な奥義であった、キリストのみ体である教会に密接に関わることであり、(エペソ3:3〜6) 教会の正しい理解なくしては、洗礼の深い意味の理解も不可能だからです。キリストは洗礼についての深い教えを、使徒たちの働きにお委ねになったと考えるべきでしょう。




   T.D. 初代の弟子たちによって教えられ執行された洗礼


 ペテロが残した洗礼の教えも多くはありません。もっとも良く知られているのは、先にも触れたペンテコステの日の説教の一部です。これはすでに説明したように、基本的にキリストの教えと同じです。まだ新しい啓示が与えられる前であったために、それ以上の意味を期待することはできません。ですからこの説教の後、およそ3千人の悔い改めた人々に弟子たちが授けた洗礼も、基本的に、キリスト在世当時の洗礼と同じ意味でした。また、ピリポが授けたエチオピアの宦官(かんがん)の洗礼も、サマリヤの人々の洗礼も、アナニヤが授けたと思われるパウロの洗礼も同じだったはずです。ペテロを始めとする初代の弟子たちは、キリストの洗礼の教えと執行をそのまま引き継いでいたのです。



  少し後になってペテロが授けた、異邦人コルネリオの場合も同様です。これらは、パウロが奥義の啓示を受け、キリストのからだについて教え始める前に行われているからです。ただエチオピアの宦官(かんがん)から始めて、サマリヤとコルネリオの場合には、罪の悔い改めよりもキリストに対する信仰が強調されていることに、少しずつ理解の進展があったようにも感じられます。特にコルネリオの場合は、罪の赦しを前提としていながら、コルネリオたちが異邦人であったにもかかわらず、神に受け入れられたという驚くべき事実を認証し、「仲間として受け入れる認定」として洗礼を授けています。
 


  仲間として加えられるという意識、すなわち、もう少し後になってパウロによって進展させられた、教会論的洗礼観の芽生えは、ペンテコステの日に3千人が加えられた出来事の記録にも見られますが、これはパウロに教育を受けたルカが、後になってから記したものであって、当時から教会論的意識があったかどうかは不明です。いずれにせよ、正しい理解は奥義の啓示を待たなければなりませんでした。ペテロが残した書簡は少なく、神学的にもパウロのように高度ではありません。洗礼においても同じで、パウロほど教会論的に論じることはできなかったようです。Iペテロ3:21を読むと、彼はキリスト在世当時と同じ、バプテスマのヨハネから引き継がれた、救済論的な理解を持ち続けていたことが分かります。救済論的意味を明確にするために、ノアの洪水をバプテスマの雛形として取り上げています。「水を通って救われた」という表現も、浸礼を連想させますが、確かなものではありません。また、ノアの洪水をバプテスマの雛形として取り上げるのは、パウロがイスラエルの紅海渡行をバプテスマの雛形として取り上げているのに似ています。ただし二人が説明したバプテスマの意義は異なっていました。ペテロは救済論的に語り、パウロは教会論的に語っているからです。



  ペテロはまた、バプテスマが肉体の汚れを取り除くものではなく、良心に関わる事であると言って、それが即物的なものではなく、あくまでも象徴的であることを明らかにしています。さらに、バプテスマが「神への誓いである」と語って、そこには誓約の意味があることを教えています。それが何の誓約であるかについては触れられていませんが、ペテロがキリストと共にいたときから馴染んできたバプテスマの意味から推測すると、キリストの弟子となる誓約、キリストに従う生き方をする誓約であったと考えられます。つまり、イニシエーションです。これは、2世紀頃から頻繁(ひんぱん)に見られるようになった、「キリストの軍隊への入隊誓約としての洗礼」につながるものかも知れません。現在、いわゆる教職者ではない一般信徒を指して用いられる「レイマン」という言葉は、もともとは、キリストの軍隊への入隊誓約をしていない一般市民、つまり、救われていない人を指して使われていたものですが、今はすっかり意味が変化してしまっています。
 


  ペテロはここで、バプテスマがキリストの復活によるものであると言っています。彼は、わたしたちの救いが、キリストの復活によるものであることを強調していますので、(Tペテロ1:3)この言葉は、それとのつながりの中で理解されるべきもので、救済論的な表現です。ただしここには、単に悔い改めの象徴としてのバプテスマ、あるいはキリストの弟子となる、決意表明としてのバプテスマ以上の意味が込められています。つまり、復活のキリストによって与えられるというキリスト論的な理解、あるいは復活のキリストにつながるという教会論的な理解もあったと見るべきです。パウロほどには深く論じられていませんが、ペテロの中にも同じ方向の理解があったのでしょう。



   T.E. パウロが理解し執行した洗礼


  パウロは、キリストから直接洗礼について聞いたとは思われませんし、バプテスマのヨハネから聞いたことも無かったようです。もちろん普通のユダヤ人として、当時一般的に行われていた洗礼に似た儀式については、知っていたでしょう。しかし、クリスチャンの洗礼についての理解は、彼が奥義の啓示を受けるまでは、もっぱら弟子たちから教えられたものであったはずです。それは当然、罪の赦しと、キリストを信じる信仰の告白という救済論的な意味合いを持つものであり、キリストの弟子となる決意の表現であり、イニシエーションの意味もあったはずです。パウロ自身もその様な理解で洗礼を受けたに違いありません。



    T.E.1 救済論的理解


  洗礼に対して救済論的な言い方をしている、パウロの言葉はわずかしかありませんので、まずそれらを検証してみましょう。



     T.E.1.a.ローマ6:3〜6とコロサイ2:11〜14の議論


  「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けたわたしたちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。わたしたちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリスト・イエスが御父の栄光によって甦られたように、わたしたちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もしわたしたちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」



  この短い言及を前後関係の中で見ると、パウロは基本的に救済論を取り扱っていたことがわかります。その救済論の中で義認という論旨に進み、そこでバプテスマを取り上げているのです。彼がバプテスマを取り上げたのは、行いが無くても信仰によって義と認められたことに満足してしまい、実際の生活で正しい生き方をしない人々がいたからです。あるいはそのような人々はまだいなくても、やがて出てくるであろうと予測したからです。そのような考えや生き方に対する反論として、パウロはバプテスマ論を用いたことが分かります。クリスチャンはキリストと共に死に、キリストと共に新しい命に甦ったのだから、古い罪の生き方ではなく、新しい義の生き方をすべきなのだとパウロは言うのです。つまり、神に義と認められたという霊的次元で実際に起こった出来事は、いまわたしたちが肉体を持って生きているこの次元で、現実の生活の中に、新しい生き方となって現されるべきだと主張しているのです。それは、「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」という彼の訴えと、(ガラテヤ5:25)同じ意味です。御霊によって生きていると言うなら、それが霊的事実なら、その霊的事実が日常の現実の中で現れてくる歩み方をしようと言うのです。そのようにして、義認が単なる霊的次元の出来事に止まらず、具体的な聖化へと進んで行くわけです。



  コロサイ2:11〜14において、パウロは次のように語っています。「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉の体を脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマを受けてキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中から甦らせた。神を信じる信仰によって、キリストとともに甦らされたのです」



  ここにおいてもパウロは、明らかに救済論的な観点からバプテスマについて述べています。この言及を含む議論の主旨は、さきほどのローマ書での主旨とよく似ていながら、すこしばかり異なったところがあります。ここでパウロは、バプテスマによってキリストと共に新たな命に甦ったわたしたちは、古い債務証書を無効にしてもらったのだから、さまざまな言い伝えの定めごとに捉われる必要が無いと言っているのです。ローマ書のほうでは、甦って新しい命に生きるわたしたちは、古い罪の生活を続けるべきではないと語り、コロサイ書のほうでは、甦って新しい命に生きるわたしたちは、古い定めごとに縛られるべきではないと語っているのです。わたしたちは罪に対して死んだように、律法に対しても死んでいるからです。ただし、このコロサイ書での議論は、先ほどのローマ書の議論のすぐ後にも、続けて行われているものです。(ローマ7:1〜6)



  ところでバプテスト系の人たちは、これらのパウロの議論を取り上げ、バプテスマの主要な意味は、キリストの死と甦りにあずかることであると主張しています。水の中に浸されることは死の確実さを意味する埋葬を象徴し、水からあげられることは、新しい命への甦りを象徴すると言うのです。それで、滴礼や灌礼ではなく、葬りに似た形式である浸礼、すなわちどっぷりと水に浸け、水に埋めつくす方法を強調するわけです。わたしたちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドも、基本的にその理解を継承しています。(ただし滴礼や灌礼を無効と断じてはいません)



  バプテスマが、キリストの死と甦りにあずかることを意味しているのは、これらのパウロの言葉から明白です。そして、それがこの部分の論旨です。わたしたちはキリストの死にあずかり、キリストと共に新しい命に甦ったのだから、古い罪の生活や定めごとに拘束された生き方を捨て、罪からも定めごとの拘束からも開放された、新しい義の生活に生きるべきだというのがパウロの主張です。しかしよく読むと、バプテスマはキリストの死と甦りにあずからせるためのものだという、バプテスト系の考え方を採るわたしたちの主張を、正当化するものではないことも分かります。



  キリストの死と甦りにあずかるのは、間違いなくバプテスマがもたらす霊的意義の一つですが、バプテスマの意義はそれだけには止まらないのです。と言うより、バプテスマのもっとも大切な意味は、「キリスト・イエスにつく」ことだと理解されます。(ローマ6:3) ところが、もっと原語の意味を大切にして語ると、わたしたちは「キリスト・イエスにつく」バプテスマを受けたのではありません。むしろ、「キリスト・イエスにバプタイズされた」、あるいは「キリスト・イエスの中にバプタイズされた」のです。「キリストの死にあずかる」のは、もしくは「キリストの死にバプタイズされた」のは、キリスト・イエスの中にバプタイズされた事実の一部分に過ぎないのです。わたしたちが受けたバプテスマは、バプテスト系の方々が主張するように、キリストの死と甦りにあずかるバプテスマではなく、キリストにバプタイズされる、キリストにどっぷりと浸けられるバプテスマです。そしてキリストにバプタイズされることは、そのまま、キリストの死とキリストの甦りにバプタイズされることなのです。(6:5)キリストにバプタイズされるとは、単に死と甦りだけではなく、あらゆる意味で、キリストとひとつになる、キリストとアイデンティファイすることなのです。



  パウロの論点の大前提は、わたしたちがキリスト・イエスにバプタイズされた事実にありました。キリストの死と復活にバプタイズされるよりも先に、少なくても理論の段階としては先に、その前提であるバプテスマ、あるいは死と復活にバプタイズされることを自動的にもたらしたバプテスマ、すなわちキリスト・イエスにバプタイズされることがあるのです。キリストの死と甦りにバプタイズされることより、キリストにバプタイズされることのほうが、より大きく重要な事実なのです。だとすると、バプテスマという言葉の意味は水の中に浸すことであり、「浸礼」という言葉こそふさわしいという主張は通っても、ローマ6:3〜6やコロサイ2:11〜14をもって、浸礼の正当性を論じることはまったく不可能なのです。



  さらに論点を明らかにしてみましょう。これらの箇所でパウロは、人がほどこすバプテスマと呼ばれる儀式、あるいは礼典について語っているのでさえないことに、気付かなければなりません。つまり、普通わたしたちが洗礼と呼んでいる、牧師や宣教師たちがほどこす儀式について語っているのではないのです。わたしたちがいつか、洗礼槽や川や海で授けられたあの洗礼ではないのです。パウロが語っているのは「人の手によって行われた割礼」と対比される、「人の手によらないバプテスマ」、肉のからだを脱ぎ捨てた、キリストの割礼と呼ばれたバプテスマです。(コロサイ2:11) 人の手が人の肉体を水の中に沈めるバプテスマではなく、肉体を離れた、霊的次元で行われる、人の手を借りない、バプテスマなのです。



  ですから、洗礼とか浸礼とか呼ばれる、人のほどこす儀式が、キリストの死と甦りにあずからせるのではありません。あるいは人のほどこす儀式が、キリスト・イエスにつながる霊的事実を象徴しているという意味でもありません。パウロがここで語っているのは、霊的次元で起こった出来事を象徴する儀式についてではなく、霊的次元で起こったことそのもの、人の手によらないバプテスマなのです。その霊的次元で起こった事実こそ、この移ろい行くわたしたち三次元の世界の出来事より、いっそうリアルなのです。その霊的次元で起こった事実こそ。パウロがここで言う、「キリスト・イエスにバプタイズされた」出来事なのです。その事実はまた、キリストの死と甦りにバプタイズされたことでもあるわけです。キリスト・イエスにバプタイズされた事実は、キリストの死と甦りにバプタイズされたことよりも、ずっと広く深いのです。



  もう一度確認しておきましょう。パウロがローマ書6:3〜6とコロサイ書2:11〜14で語ったバプテスマは、霊的次元で起こったバプテスマであり、教会がほどこす洗礼、牧師や宣教師たちが授ける洗礼のことではありません。

                        つづく









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2010年10月14日

礼典の意義について (1)

  礼典の意義について
                       

はじめに・・・・古い皮袋


 
  わたしたちはみな、伝統的に「伝統」に弱いようです。イエス様の時代にも、伝統は幅を利かせていました。古い皮袋に新しいぶどう酒を注いでしまったイエス様は、みんなから誤解され、嫌われ、憎まれて、とうとう十字架の死にまで追い詰められました。もちろん、イエス様は死を前提としておいでになったのですから、恐れることなくあたらしいぶどう酒を注ぎ続け、当時の皮袋を破き、旧約聖書の理解と人々の生活に変革をもたらしました。



  洗礼と聖餐という二つの礼典についても、わたしたちは伝統を大切に守り続けてきました。わたしたちアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、(「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド」は世界のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会全体をさします) 洗礼においては、基本的にバプテストの伝統的洗礼観を受け継いできました。聖餐においては基本的にツイングリの聖餐観を伝統としてきました。宣教と、宣教のための力の付与である聖霊のバプテスマを強調し、どちらかというと制度的なこと、またしきたりや伝統には、関心を示してこなかったわたしたちの間では、礼典についても真剣に論じられたことがなかったように思います。とはいえ、洗礼と聖餐の大切さは、聖書によって明らかであり、それらの意義を正しく理解し、正しく執行することは、教会にとって絶対にないがしろにしてはならないことです。それは、ただ学問の分野としての神学においてよりも、実際の教会建設と運営、あるいは個々人の信仰生活という実践分野にとって、非常に重要な意味を持つものです。わたしたちの間にしっかりした教会観が欠如しているのは、この二つの礼典の軽視、あるいは無理解とも関係しています。



  この二つの礼典についての解釈と執行は、さまざまな教団・教派の教会観の基盤として強い伝統と共に据えられ、いまさら論じられる必要がないほど確立されたものであるかのように考えられています。ところが驚いたことに、一瞥しただけで分かることは、それらの伝統の多くが、聖書の記述の解釈とはほとんど関係がないことです。あるいは、自分たちの伝統に都合の良いように、聖書の記述を切って貼ったような代物であることです。もっと端的に言うならば、聖書の教えとほとんど関係のないところで発展した、カトリックの秘蹟(ひせき)の焼き直し、あるいはカトリックの卵の殻をくっ付けたひよこの尻に過ぎないことです。偉大なルターの神学にしても、高尚(こうしょう)なカルビンの神学にしても、こと礼典論について言えば同じです。また、これらの伝統の中から幾多の高名な神学者が現れて、それぞれの礼典論を思索的にあるいは思弁的に推し進めてきました。彼らの言っていることを聞くと、まるで摩天楼(まてんろう)を真下から見上げるように、圧倒されてしまいます。ところがふと我に返って見ると、彼らの論の多くは、誰々がこう言った、何々信仰告白にはこう記されているということばかりで、聖書の正しい理解にはほとんど目が向けられていないのです。聖書が用いられるとすれば、彼らの主張を補強するために、正しい解釈などに頓着せずに都合よく利用されているだけです。彼らは自分たちの伝統から、一歩も進み出そうとはしないのです。



  一方、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドを見ると、伝統的教会の神学者たちに似た思弁的な人たちも、少しずつ現れていますが、あまり伝統的ではないという「伝統」が、まだまだ引き継がれていると言えます。伝統的ではないというのは、聖霊のバプテスマという刷新的理解から、あるいはペンテコステ運動という革命的運動から生まれた、わたしたちの宿命でありまた大切な一面です。その伝統的ではない「伝統」の中でももっとも大切な伝統は、徹底的に聖書主義であることです。もちろん聖書主義であることは、プロテスタント教会のほとんどが旗印にしているほどですから、それだけではどうと言うことはありません。ただ、多くの伝統的プロテスタント教会が聖書主義を掲げていながら、自分たちの主張を擁護(ようご)しようとするあまり、非常に思弁的(しべんてき)になり、聖書の単純明快な教えを無視したり、後ろに押しやったりしてしまうやり方、厳しい言葉で言うと、白を黒と言いつのる傾向を持つのに対し、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、単純で素人的な、言い換えれば素直で常識的な聖書の読み方をし、思弁の落とし穴に陥らない特徴を持っているのです。



  アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの発祥当時、わたしたちの先輩方には、神学的な素養を身につけた人がいませんでした。聖書学校を出た人たちもいるにはいましたが、ほとんどは聖書塾と呼ぶのさえおこがましいものでした。高等教育を受けた者だけが入ることができた、神学校を卒業した人は知られている中には一人もいません。 またこの運動が、たとえばメソジスト運動やホーリネス運動のように、偉大な人物の周りから起こったのではなく、聖霊に動かされた無名無力の下層階級の人々の中から起こった大衆運動であったために、神学よりも実際的行動を重んじる傾向がありました。思索的(しさくてき)で思弁的な神学は苦手というか、関心が持てなかったのです。彼らはむしろ単純に、聖書全巻を誤りの無い神の言葉と認め、まさに素人的な畏敬(いけい)をもってこれを読み、素人的な素直さで理解し、それを行動に移してきたのです。



  たとえば、現在でもわたしたちの基本的教えであり、多くのペンテコステ教会が大切にしている、異言を伴う聖霊のバプテスマの理解も、神学者たちが言い出したことでも、偉大な指導者が考え出したことでもありません。たった数年しか存在しなかった小さな無名の聖書塾の、わずか数十人の無名の生徒たちが、一人だけの教師が旅行に出かけるときに残して行った宿題をやろうとして、使徒の働きを共に読み進むうちに発見したものです。素人的な素直な聖書の読み方の実なのです。



  それがまさに素人的な聖書の読み方であり、素人的な理解に過ぎなかったために、多くの間違いも犯してきました。ただ、素人的に聖書を読み、つまり聖書全体を浅く広く読み、全体的に理解しようとする、きわめて常識的な読み方をして理解を進めてきたために、運動全体として、あるいはアッセンブリーズ・オブ・ゴッド全体として、偉大な神学者たちのように大きな間違いには陥ることなく、今日までやってくることができました。確かに、さまざまな極端主義者たちも起こり混乱も経験しましたが、総体的には彼らの主張に揺れ動くことなく、穏健な聖書主義の中道を歩いてきたのです。そして、まさにそのような単純な聖書主義、聖書に対する畏敬(いけい)があったために、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの間には、他の多くの団体に見られるような、個人を祀り上げる伝統は育ちませんでした。わたしたちの間では、神学論文の中ならいざ知らず、普通の聖書論議や説教の中で、偉大な先輩たちの名を挙げ、言葉を引用して、自分の主張の裏付けや権威付けに用いることはありません。わたしたちの間では、聖書が権威であり、常に、人の言葉や人の意見にではなく聖書に行くのです。



  ですから、わたしたちの間では、偉大な先輩方の言うことに盾つくことになるような意見でも、それが聖書に忠実な学びから生まれたものであるならば、堂々と語ることができます。どのように影響力が強く、いかに尊敬されている人の見解であっても、聖書の言っていることと違うと判断されるならば、恐れることなく反論し、聖書を持って証明して行けるのです。問題は誰がどう言ったかではなく、聖書がどう語っているかです。問われるのは、その聖書の理解の仕方が正しいか、理論の進め方に齟齬(そご)は無いかということであって、高名な先輩の意見と同じであるか、何々信条に忠実であるか、何とか告白に従っているかではないのです。



  このように単純に聖書に戻ることがくり返されてきたために、つまり人の伝統に戻るのではなく、聖書に戻る伝統が維持されてきたために、全体的には、誤った神学や誤った行動に陥ることなく、信仰の純粋さを保ってくることができたのです。わたしたちは、この単純に聖書にもどる、聖書に聞く、何事においても、ことごとく、聖書に戻って考える伝統を大切にして行きたいものです。ただし、この単純に常識を持って聖書を読む伝統も、必ずしも多くの人々によって理解され、守られてきたのではありません。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド全体としてはその様に言えるだけです。そこでわたしたちは今後、意識してこの伝統を守り続ける努力をしなければならないのです。



  とはいえ、単純で素直であることが、学術的な浅薄(せんぱく)さになってはなりません。神学的にも確固たるものでなければならないのです。事実、単純で素直であるために、わたしたちの間では、でたらめな聖書引用と解釈を羅列(られつ)した奇天烈な主張が次々と現れ、また、それらにいとも簡単に騙されていく人々も後を絶たないからです。こともあろうに、牧師や伝道者たちでさえ例外ではないのです。やたらに聖書が引用されているだけで、聖書的だと思い込んでしまうのです。聖書とはおおよそ関係のない神学議論をしてきた人たちならば、たとえどんなにたくさんの聖書語句が並べ立てられようと、それで驚くことも納得することもありませんから、やすやすと騙されることもありません。でもペンテコステの人々は、聖書の言葉さえ列挙されれば、まるで、「この紋所が目に入らぬか」と一喝されたように、平伏してしまうのです。



  聖書的に確固たる神学を持つ。これは、今後のわたしたちの健全な成長に欠くことができない要素です。特に、カリスマ運動や第三の波と言った「擬似ペンテコステ運動」が、勢い良くわたしたちの中に流れ込んできて、悪しきペンテコステの伝統に倣い、聖書語句を列挙しながら非聖書的なことを叫んでいる今、わたしたちの神学を、あらゆる角度から確立していかなければなりません。そこで洗礼と聖餐という大切な分野においても、単にバプテストとツイングリの伝統を継承するだけに止まらず、人々の言葉や人の言葉をひっくり返してひねくり回す神学を引き継ぐのでもなく、正しい聖書的な理解を必要としているのです。



  そういうわけで、筆者はいま、何はともあれ聖書にもどる、ことごとく聖書に聞く、素直に素朴に聖書に向き合う、常識をもって広く聖書を読むわたしたちの伝統を大切にして、洗礼と聖餐という二つの礼典について学んでみたいと思います。その結果、たとえ古い皮袋に新しいぶどう酒を注ぐことになったとしても、そうしなければならないと感じるのです。



T. 洗礼について



  洗礼は旧約聖書には出てこず、新約聖書だけに教えられていることですが、その発祥(はっしょう)と発展をたどると、新約聖書以前に遡ります。




  T.A.ヨハネ以前の洗礼


  新約聖書は、バプテスマのヨハネによる洗礼を最初の洗礼の実例として記録していますが、その記述は、洗礼という行事がヨハネ以前から行われていたことを伺わせます。人々は洗礼なるものに幾分、あるいはかなり慣れていたと判断すべきです。そうでなければ、洗礼志願者たちがあのように大挙して参集することはなかったでしょう。



  歴史を調べてみると、洗礼によく似た儀式は、もっとも近いところではユダヤ教の中で行われていました。たとえば異邦人の女性がユダヤ人となる場合、つまりユダヤ教徒となる場合、男性のように割礼を受けることができなかったために、割礼に代わるいくつかの条件を満たさなければなりませんでした。その条件の一つが、洗礼によく似た儀式を受けることだったのです。そこには明らかに、新しく物事を始めるとか、新しい生き方を始めるという、「イニシエーション」の意味が込められていました。あるいは律法学者、すなわち聖書を書き写すことを専門としていた人々の間でも、心身をきよめる意味で盛んに沐浴が行われていました。写本の働きを始める前はもちろんのこと、「神」という言葉が出てきたならば、それを書き写す前に必ず沐浴(もくよく)をしたと言われています。



  さらに当時のグレコローマン社会で、すでにかなりの力を持っていたミトラ教という宗教の中でも、バプテスマによく似た儀式が広く行われていましたし、他にも周辺のさまざまな宗教が、同様なことを行っていたことが知られています。それらの宗教行事では、たいてい「汚れを洗い流す」、「罪を洗いきよめる」、あるいは「呪いや悪運を洗い落とす」という意味合いと、新たな生き方に対する期待、イニシエーション的な意味合いが込められていました。そういうわけでバプテスマは、バプテスマのヨハネが独創的に始めた儀式ではなかったことが分かります。人々はすでに長い間、そこここで行われていたバプテスマに類似した習慣に馴染(なじ)み、違和感を持っていなかったわけです。ただヨハネはそのバプテスマに、独自に強烈な「悔い改め」の意味合いを持たせたということです。




  T.B. バプテスマのヨハネの洗礼。 


  バプテスマのヨハネの洗礼については、マタイ3:1〜17、マルコ1:1〜11、ルカ3:1〜22、ヨハネ1:15〜37、3:22〜30、使徒19:1〜6に記されています。
 


    T.B.1. バプテスマのヨハネの洗礼の意味
 

  バプテスマのヨハネが授けていた洗礼は、「悔い改めの洗礼」と呼ばれていました。(マルコ1:4、使徒13:24、19:4)ヨハネのメッセージが悔い改めを迫るものであり、彼のメッセージを受け入れた者たちは、自分の悔い改めを象徴する行為、悔い改めの告白としてバプテスマを受けたのです。そこには、当時のユダヤ教や周辺のさまざまな宗教の背景から、罪をきよめるあるいは洗い流すという、象徴的意味も含まれていたことでしょう。また異邦人女性が、ユダヤ人となって新しい生き方を始めようとするとき、その決意の表明として洗礼に似た儀式を受けていたことなどの連想から、罪を捨てて新しい生き方に入るという意味が込められたと考えられます。



   この洗礼をキリストがお受けになろうとしたとき、バプテスマのヨハネはそれを思いとどまらせようとしました。彼は直感的に、罪のない神の小羊であるキリストに、洗礼は不要であると理解したのでしょう。彼はキリストの神性と人間性の、すべてを理解してそう言ったのではありませんが、この言葉からも、彼がほどこしていた洗礼は、悔い改めと新しい生き方の始まりを象徴していたことが分かります。



    T.B.2. 洗礼の方法


  「洗礼」が、「バプテスマ」という言葉の訳語であることは、だれでも知っています。バプテスマの動詞形の「バプティゾー」は、洗濯や染物をするとき、布を水や染め液の中にどっぷりと浸すという意味でした。バプテスマのヨハネが、バプテスマのヨハネと呼ばれた理由は、人々をどっぷりと浸していたからでしょう。あるいは、どっぷりと浸すと同じだけ、全身が水に濡(ぬ)れる方法で、「バプテスマ」を授けていたからに違いありません。ショボショボ、ピチャピチャと頭上に水を垂らすだけでは、とてもバプテスマとは言えず、やはりザブンと全身を水につけるのがバプテスマという言葉に合います。



  その意味では、バプテスト教会が「バプテスマは『浸す礼』であり、滴(てき)礼(れい)(頭に少量の水をたらす)も灌(かん)礼(れい)(頭から相当量の水を注ぎかける)もふさわしくない。浸礼こそ正当である」と主張するのにも理由があります。日本のバプテスト教会は、正式には洗礼と呼ばず、浸礼と呼んでいます。公用の日本語聖書である、口語訳聖書や新改訳聖書が、「洗礼」という訳語を用いずに、「バプテスマ」という原語を残し、新共同訳聖書が「洗礼」に「バプテスマ」と振り仮名を加えているのは、「洗礼」が良いと考える教会と、「浸礼」という言葉に固執(こしつ)するバプテスト教会の、両方に受け入れてもらうためです。バプテスト教会の主張によると、バプテスマで重要なのは、「洗う」という意味よりも、葬りを象徴する「浸す」という行為なのです。それで「浸礼」という言葉に固執するわけです。



  そのためバプテスト系の人々は、ヨハネが洗礼を授けていた場所には水がたくさんあったという、聖書の記述を大切にし、(ヨハネ3:23) 浸礼の根拠の一つにしているわけです。ところが、滴礼や灌礼などを正当化しようとする人たち、つまり、カトリックの伝統的神学を引き継いで、バプテストの人たちほど素直に聖書を読もうとしない人たちは、そこには大量の水があったのではなく、水の源、つまり、泉がたくさんあったのだと理解します。彼らがバプテストの主張に反対するために引用するもう一つの聖書的根拠は、ペンテコステの日に洗礼を受けた人々の数が3千人に及ぶと読める、使徒の働き2:41の記述です。エルサレムの町の中には、一日のうちに、それほど多くの人々が「浸礼」を受けることができる場所がなかったから、このときの洗礼は、滴礼か灌礼であったはずだと言うのです。それに対し、「浸礼」を主張する人々は、一日の内に3千人全員が洗礼を受けたと理解する必要はないし、エルサレムの外でも洗礼を受けることができたと主張しています。



  この洗礼の方法についての論争は、聖書の素直な理解からは、どうみてもバプテスト系の主張に分がありそうです。バプテスマという言葉とヨハネがほどこしていたバプテスマの記述は、浸礼を強く示唆する上に、滴礼や灌礼が用いられたことを示す記述は聖書のどこにも無いからです。かえって、エチオピアの宦官の例でも、「ピリポも宦官も水の中に降りて行き・・・・・水から上がってきた」と、水に浸ったことを容易に想像させる言葉が用いられています。(使徒8:36〜39)歴史を調べると、2〜3世紀頃のキリスト教遺跡として、岩に掘られた十字型の洗礼槽が多数見つかっています。いずれも、人間を沈めるのに充分な広さと深さを持ったものです。滴礼や灌礼のような略式様式は、かなり後代になって行われるようになり、カトリック教会の伝統になったことが明らかです。カトリックの神学を引き継いでいる人たちの、滴礼や灌礼を正当とする主張は、聖書を無理やりに曲解し、自分たちの主張にあわせようとしているだけに過ぎません。その様な手法こそ、彼らの伝統になっていることさえ多いのです。今わたしたちに必要なのは、できるだけ素直に聖書にもどり聖書に聞くことです。



  ただし、ヨハネは現在のわたしたちの多くが行っているような、立ったままの信徒を手で支えながら後ろに倒す方法、あるいは前に倒す方法で行っていたかどうかは不明です。あの方法では、一日に何百人、あるいは何千人もの人々に洗礼を授けることは、それこそ物凄い重労働で、いかにヨハネが屈強な青年だったとしても、それを何日も続けてやっていたのでは、疲労困憊(ひろうこんぱい)してしまったに違いありません。


                     つづく


















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